初級翻訳・永日小品 第6話

夏目 漱石

その上、娘に対する口の利き方が、まったく優しさを欠いています。
歯が悪いのか、もごもごと言いながらも、どこか荒っぽい調子が感じられます。
娘も父親に対しては、ただでさえ険しい顔が、いっそう険しくなるように見えます。
どう考えても、普通の親子ではありません。
――僕はそんなことを考えながら眠りにつきました。

翌朝、朝食を食べに降りると、昨日の親子のほかに、もう一人家族が増えていました。
新しく食卓に加わったのは、血色がよくて愛嬌のある、四十歳くらいの男です。
食堂の入り口でその男の顔を見たとき、僕は初めて、生き生きとした人間社会の中にいるような気持ちがしました。
「私の兄です」と、女主人がその男を紹介してくれました。
やはり夫ではなかったのです。
しかし、兄弟とはどうしても思えないほど、顔立ちが違っていました。

その日は昼食を外で済ませ、三時過ぎに帰って自分の部屋に入ると、すぐに「お茶を飲みに来い」と呼ばれました。
今日も空は曇っています。
薄暗い食堂のドアを開けると、女主人がたった一人、暖炉の横で茶器を準備して座っていました。
石炭を燃やしてくれたおかげで、少しだけ陽気な気分になりました。
燃えついたばかりの炎に照らされた女主人の顔を見ると、ほのかに火照った肌に、少しだけおしろいを塗っているのがわかりました。
僕は部屋の入り口で、化粧の持つ「寂しさ」というものを、しみじみと感じ取りました。

女主人が僕に一家の事情を話してくれたのは、この時のことです。
女主人の母は二十五年前にフランス人と結婚し、この娘を産みました。
何年か連れ添った末に夫は亡くなり、母は娘の手を引いて、再びドイツ人と再婚しました。
そのドイツ人が昨夜の老人です。
今ではロンドンのウェスト・エンドで仕立て屋の店を出していて、毎日そこへ通勤しています。
先妻の子も同じ店で働いていますが、親子は非常に仲が悪いのです。
一つ屋根の下にいても、口をきくことさえありません。
息子はいつも夜遅くに帰ってきます。
玄関で靴を脱ぎ、足袋のような靴下で、爺さんに気づかれないように廊下を通り、自分の部屋へ入って寝てしまうのです。
女主人の母はずいぶん前に亡くなりました。
死ぬ間際に自分のことをくれぐれも頼んで亡くなったのですが、母の財産はすべて爺さんの手に渡ってしまい、一銭も自由にできないそうです。
仕方がないから、こうして下宿をして小遣いを稼いでいるのだと言います。
「アグニスは――」
女主人はそれより先を語りませんでした。
アグニスというのは、この家で働いている十三、四歳の女の子の名前です。
僕はその時、今朝見た息子の顔とアグニスの間に、どこか似たところがあるような気がしました。
ちょうどその時、アグニスがトーストを抱えて台所から出てきました。
「アグニス、トーストを食べる?」
アグニスは黙って一枚のトーストを受け取ると、また台所の方へ戻っていきました。

一ヶ月後、僕はその下宿を去りました。

過去の匂い
僕がこの下宿を出る二週間ほど前に、K君はスコットランドから帰ってきました。その時、僕は女主人の紹介で、初めてK君と顔を合わせました。
ロンドンの山の手にある小さな家に、偶然にも二人の日本人が居合わせているというのに、互いに名前すら名乗っていないような素性の知れない外国の女主人の力を借りて、「どうぞよろしく」と頭を下げている状況を思うと、今考えてもなんだか不思議な気分です。
その時、この年配の女性は黒い服を着ていました。
骨ばっていて、まるで油分が抜けてしまったような手を差し出し、「Kさん、こちらがNさんです」と言いましたが、言葉を言い切らないうちに、もう片方の手を僕の方へ差し出して、「Nさん、こちらがKさんです」と、平等に二人を引き合わせました。
僕は、この年配の女性の態度がいかにも厳格で、どこか特別な重々しさを漂わせていることに、少なからず驚かされました。
K君は僕の向かいに立って、きれいな二重まぶたの端に皺を寄せながら、微笑んでいました。
僕は笑うというよりも、むしろ何とも言えない矛盾した寂しさを感じました。
もし幽霊が仲人となって結婚式を挙げるとしたら、こんな気持ちになるのではないか、と立ったまま考えてしまったのです。
この年配の女性の黒い影が動く場所はすべて、まるで生気を失って、たちまち古い遺跡に変わってしまうような気がしました。
もし誤ってその肌に触れてしまったら、触れた人の血までが、そこだけ冷たくなってしまうのではないかとしか想像できません。
僕は、戸の外へ消えていく彼女の足音に、思わず振り返りそうになりました。

年配の女性が出て行ったあとで、僕とK君はすぐに打ち解けました。
K君の部屋には美しい絨毯が敷かれ、白い絹のカーテンが下がり、立派な安楽椅子とロッキング・チェアが置かれているうえに、小さな寝室までついていました。
何より嬉しいのは、絶えず暖炉に火が焚かれていて、惜しげもなく光る石炭を崩していることです。
それから僕はK君の部屋で、二人でお茶を飲むことにしました。
昼間はよく近所の料理店へ一緒に出かけました。
支払いはいつもK君がしてくれました。
K君は「港の調査に来ている」などと言っていて、かなりの金を持っていました。
家にいるときは、海老茶色のサテン地に花鳥の刺繍が施されたドレッシング・ガウンを着て、とても楽しそうにしていました。
それに対して僕は、日本から着てきた着物がすっかり汚れてしまい、見苦しいありさまでした。
K君は「あまりにひどい」と言って、新調するための費用まで貸してくれました。

二週間の間、K君と僕は色々な話をしました。
K君が「今に慶応内閣を作るんだ」と言ったことがあります。
慶応年間に生まれた人だけで内閣を作るから「慶応内閣」と呼ぶのだそうです。
僕に「君はいつ生まれだ?」と聞くから「慶応三年だ」と答えると、「それなら閣員の資格があるな」と笑っていました。
K君は確か慶応二年か元年の生まれだったと記憶しています。
僕はあと一年ずれていたら、K君と共に国家の重要事項を話し合う権利を失うところでした。
そんな面白い話をしている間に、時々下の家族のことが噂に上ることがありました。
するとK君はいつも眉をひそめて、首を振っていました。
「アグニスという小さな女の子が一番かわいそうだ」と言っていました。
アグニスは朝になると石炭をK君の部屋に持ってきます。
昼過ぎにはお茶とバターとパンを持ってきます。
黙って持ってきて、黙って置いて帰っていきます。
いつ見ても青ざめた顔をして、大きな潤んだ瞳で少しだけ挨拶をするだけです。
影のように現れては、影のように下へ降りていきます。
かつて足音がしたためしはありません。

ある時、僕は「不愉快だから、この家を出ようと思う」とK君に打ち明けました。
K君は賛成して、「自分はこうして調査のためにあちこち飛び回っている身だから構わないが、君のような人は、もっと居心地のいい場所へ落ち着いて勉強したらよかろう」と忠告してくれました。
その時、K君は「地中海の向こう側へ渡るんだ」と言って、しきりに旅の支度を整えていました。

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