初級翻訳・夢十夜 第2話

夏目 漱石

短刀を鞘に収めて右脇に引き寄せ、それから座禅を組みました。
――趙州和尚が言った「無」とは何か。
「無」とは何だ。
「クソ坊主め」と歯ぎしりをしました。
奥歯を強く噛み締めたので、鼻から熱い息が荒く漏れます。
こめかみがつって痛みます。
目は、いつもの二倍も大きく見開きました。
掛け軸が見える。行灯が見える。畳が見える。
和尚のあのヤカン頭がはっきりと見えます。
口を大きく開けて嘲笑っている声まで聞こえてくるようです。
とんでもない坊主だ。どうしてもあのヤカン頭を首にしてやらなくては。
悟ってやる。
「無だ、無だ」と舌の根で念じました。
「無だ」と言っているのに、やっぱり線香の香りがします。
なんだ、線香のくせに。
自分はいきなり拳を固めて、自分の頭を嫌というほど殴りつけました。
そして奥歯をギリギリと噛み締めました。
両方の脇から汗が吹き出します。背中が棒のようになりました。
膝の関節が急に痛くなりました。
「膝が折れたってどうなるものか」と思いましたが、やはり痛い。苦しい。
「無」はなかなか出てきません。
出てくると思うと、すぐに痛みが襲ってきます。
腹が立つ。無念だ。ものすごく悔しい。
涙がポロポロとこぼれます。
いっそのこと、身を大きな岩にぶつけて、骨も肉もめちゃくちゃに砕いてしまいたくなります。
それでも我慢して、じっと座っていました。
堪えがたいほど切ないものを胸にため込んで、必死に耐えていました。
その切ないものが、全身の筋肉を下から押し上げて、毛穴から外へ吹き出そう吹き出そうと焦っているのに、どこもかしこも塞がっていて、まるで出口がないような、残酷きわまりない状態でした。

そのうちに、頭がおかしくなってきました。
行灯も、蕪村の絵も、畳も、棚も、あるようで無いような、無いようで有るように見えてきました。
かといって「無」が姿を現すわけでもありません。
ただ、適当に座っているような感覚でした。
そこへ突然、隣の座敷の時計がチーンと鳴り始めました。
ハッとして、右手をすぐに短刀にかけました。
時計が二つ目の鐘をチーンと打ちました。

第三夜

こんな夢を見た。
六つになる子供を背負っている。
確かに自分の子供だ。ただ不思議なことに、いつの間にか目がつぶれて、青坊主になっている。
自分が「お前の目はいつつぶれたんだい」と聞くと、「なに、昔からさ」と答えた。
声は子供の声に違いないが、言葉づかいはまるで大人だ。しかも対等な感じがする。
左右は青々とした田んぼだ。道は細い。
サギの影が時々、闇のなかを横切る。
「田んぼに出たね」と背中で言った。
「どうして分かる」と顔を後ろへ向けるようにして聞くと、
「だって、サギが鳴いているじゃないか」と答えた。
すると、サギが本当に二声ほど鳴いた。
自分は自分の子供ながら、少し怖くなった。
こんなものを背負っていては、この先どうなるか分からない。
どこか置き去りにできる場所はないかと向こうを見ると、闇の中に大きな森が見えた。
あそこなら、と考え出した途端に、背中で「ふふん」という声がした。
「何を笑うんだ」
子供は返事をしなかった。ただ、
「お父さん、重いかい」と聞いた。
「重くはない」と答えると、
「今に重くなるよ」と言った。
自分は黙って森を目標に歩いて行った。
田んぼのなかの道が不規則にうねっていて、なかなか思うように外へ出られない。
しばらく歩くと、道が二つに分かれていた。自分は股の根元に立って、少し息を整えました。
「石が立っているはずですよ」と小僧が言いました。
なるほど、腰くらいの高さに八寸角の石が立っています。
表には「左 日ヶ窪(ひがくぼ)」、「右 堀田原(ほったはら)」と刻まれています。
真っ暗闇なのに、赤い文字がはっきりと見えました。
その赤色は、まるでイモリのお腹のような色でした。
「左がいいでしょう」と小僧が指示しました。
左を見ると、さっきの森が、高い空から自分たちの頭上に闇の影を投げかけています。
自分は少し迷いました。
「遠慮しなくてもいいですよ」と小僧がまた言いました。
自分は仕方なく、森の方へ歩き出しました。
心の中では、目が見えないくせにどうして何でも知っているんだろうと考えながら、細い道を森へ近づいていくと、背中で「どうも盲目は不自由でいけませんね」と言いました。
「だから、こうして背負ってやっているじゃないか」
「背負ってもらってありがたいのですが、どうも人にバカにされるのがいけません。親にまでバカにされるから困るんです」
なんだか嫌な気分になりました。
早く森へ行って捨ててしまおうと、歩くスピードを上げました。
「もう少し行くと分かります。……ちょうどこんな晩だったな」と、小僧は背中で独り言のように言っています。
「何がだ?」と、きつい声で聞き返しました。
「何がって、知っているでしょう?」と子供はバカにするように答えました。
すると、なぜか自分も知っているような気がしてきました。
けれど、はっきりとは分かりません。
ただ、確かにこんな晩だったように思えるのです。
そして、もう少し行けばすべてが分かる気がします。
分かってしまったら大変だから、分からないうちに早く捨てて安心しなければならない、そんな気持ちになりました。
自分はますます歩く足を速めました。
雨はさっきから降り続いています。
道はだんだん暗くなっていきます。
ほとんど夢中でした。
ただ背中に小さな小僧がくっついていて、その小僧が自分の過去、現在、未来をすべて照らし出し、ほんの少しの事実も逃さない鏡のように光り輝いています。
しかも、それが自分の子供なのです。
そして、目が見えないのです。
自分はもう、たまらなくなりました。
「ここだ、ここだ。ちょうどその杉の根のところだ」
雨の中で、小僧の声がはっきりと聞こえました。
自分は思わず立ち止まりました。
いつの間にか森の中に入っていたようです。
一間(約二メートル)ほど先にある黒い影は、確かに小僧の言った通り杉の木に見えました。
「お父さん、その杉の根のところでしたね」
「ああ、そうだ」と、自分は思わず答えてしまいました。
「文化五年、辰年(たつどし)でしょう?」
なるほど、言われてみれば文化五年辰年のような気がしてきました。
「お前が俺を殺したのは、今からちょうど百年前だね」
自分はその言葉を聞いた瞬間、今から百年前、文化五年の辰年のこんな暗い晩に、この杉の根で一人の盲目を殺したという記憶が、突然頭の中に浮かび上がりました。
「俺は人殺しだったんだな」と気づいた途端、背中の子供が急に石地蔵のように重くなりました。

第四夜

広い土間の真ん中に、涼み台のようなものが据えられていて、その周りに小さな椅子が並んでいます。
台は黒く光っています。
片隅には四角い膳を前に置いて、おじいさんが一人で酒を飲んでいます。
おつまみは煮しめのようです。
おじいさんはお酒のせいで顔が真っ赤です。
そのうえ顔中がつやつやしていて、シワなどどこにも見当たりません。
ただ、白いヒゲをたっぷり生やしているので、年寄りだということだけは分かります。

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