初級翻訳・あのときの王子くん 第17話

あのときの王子くん

そういった徹底ぶりは、物語の全体を通して、原文で “petit prince” と呼ばれている部分にしか「王子」という言葉を使わない、というところにも現れています。
ずっと「王子」と呼ぶのは、少し童話として出来上がりすぎているのではないか、と私は思うのです。
少なくとも、少年本人が自分が王子であると名乗ったわけではありませんし、操縦士は会話の中で一度も「王子くん」とは言いません。
地の文でも、物語の最初のうちは、「ぼく」が気分を害したり、少年に対してむかつきを覚えたりするような場面で使われることがほとんどです。
この王子くんに少し気に入らないものを感じていた操縦士が、だんだん彼に心を開いていくのだとすれば、「王子」という言葉が限定的に使われることを、翻訳で消してしまうのは良くないことだと思うのです。
最初からいきなり「王子さま」という、なんだかキラキラした登場人物が現れたわけではありません。
なんだか不思議な子どもがひとり現れて、むかついたり、同情したり、いろいろな心の変化があって、そして物語のクライマックスへと向かいます。
心の細やかな変化を無視して、童話風に『星の王子さま』という名前をつけたり、地の文でもずっとその名前で呼び続けたりすることが、本当に最善なのかどうか、疑問に思わざるをえません。

一方で、”Le Petit Prince” を『星の王子さま』ではなく、『小さな王子』のような題名にすることも、あまりいいようには思えません。
全体的に、新しく出た翻訳の多くは、冠詞や代名詞に対して配慮が足りないような気がします。
もし “Le Petit Prince” の直訳が『小さな王子』というのであれば、冠詞の “le” はどこへ行ってしまったのでしょう。
それを直訳する必要はないのでしょうか? それとも、その冠詞は不定冠詞でも定冠詞でも、どちらでも構わないというのでしょうか?

もしこの作品が童話であり、どの登場人物も、彼は “le petit prince” なる人物であるという同じ態度をとっているのであれば、話は違います。
個人の体験や感覚を超えて、いろいろな人によって語られる童話の世界では、それぞれの登場人物は語り手や聞き手に関係なく固有のものとなり、ただそこに登場するだけで唯一である資格を得て、定冠詞をつけることができます。
しかし、実際この作品で “petit prince” につくのは、定冠詞のときもあれば、不定冠詞のときもあり、また冠詞がつかないこともあります。
そして何よりも大事なのは、この作品が操縦士という一人称の語り手による、思い出をたどる物語であるということです。
これは、誰によって語られてもいい童話ではなく、あるひとりの語り手による告白なのです。
さらに、定冠詞と不定冠詞の使い分けは、この話のテーマにもつながっています。
不定冠詞がつく場合というのは、そのものが世の中にたくさんあって、そのどれでもいいからひとつを取り出したいときです。
そのひとつは、ほかのたくさんと何の変わりもありません。キツネの言葉を借りれば、「ある一匹のキツネ」と言ったときのキツネは、「ほかのキツネ十万匹と、なんのかわりもない」わけで、どれでもいいのです。ありふれていて、まだ特定されていないものに対しては、不定冠詞が使われるからです。

しかし、語り手であるぼくとそのキツネとの間に何らかの関わりがある場合、あるいは語り手と聞き手の間で、そのキツネが特別な一匹として認識できるとき、そのキツネは定冠詞を持った「そのキツネ」となります。それは、「そのちいさな王子」の場合でも同じことです。

「あるちいさな王子」なんていう存在は、世界には五万と存在するかもしれません。いくらでも存在の可能性がありますし、そのなかのどの王子でもいいのであれば、「あるちいさな王子」で構わないでしょう。また、誰にとっても同じひとつの王子が存在するのであれば、最初から最後までずっと「そのちいさな王子」でいいわけです。

〈星の王子さま〉と呼ぶときも、その王子が星にいることが存在の理由のようになってしまい、誰と接しようが誰と出会おうがどうでもよくなります。ただ王子が星にいるという理由だけで、〈星の王子さま〉という唯一の存在が識別できるからです。

しかし、この物語を読めば、少年がそのような存在でないことは明らかです。この「ちいさな王子」に定冠詞がつくかつかないかという関係が、操縦士と少年の間にあるのです。少年が星にいたから、操縦士にとって大事になったわけではありません。

六年前、あるひとりの小さな王子が操縦士の前に現れ、その少年と操縦士はしばらく時をともに過ごします。つまり、操縦士は少年のために時間を費やすのです。そして、ふたりは絆を作ります。だからこそ、六年後の操縦士は、その少年に定冠詞を付けることができますし、付けなければならないのです。

語り手が、その少年と出会ったときが過去に存在し、そのために「その」という言葉を冠する。フランス語の話者には、その冠詞が当然のことであっても、日本語の話者にとっては違います。もし〈星の王子さま〉と訳したとき、その含意はすっかり抜け落ちてしまうことになります。

語り手にとって、〈星の王子さま〉だから大切なのではなく、六年前のサハラ砂漠に降り立ったとき、〈あのとき〉に出会って一緒に過ごしたからこそ、少年はかけがえのない存在なのです。そのほかのどのときに出会えたかもしれない王子くんではなく、〈あのとき〉の王子くんが大事なのです。

だから童話のように超越した時間を話すのではなく、追憶の話として、個人的な体験の話として語られます。そして、語り手から〈あのとき〉が語られると同時に、読み手はそれを追体験し、操縦士と同じようにその少年と関わりを持ちます。本を読む行為によって時間を費やし、そのために少年が大切なものとなることもあるでしょう。そして、王子くんというのは、ほかの誰が読んだときでもなく、自分がこの本を読んだ〈あのとき〉の王子くんとなるはずです。

このように作品の根幹に関わってくる「定冠詞」という存在を、訳題から落とすというのは、翻訳者としてどうしてもできません。ましてや、内藤氏の訳業に挑戦するのであれば、なおさらです。内藤濯氏のご子息である内藤初穂氏は、このように語られています。

「せっかく新訳されるのですから、新しいタイトルを工夫してほしい。『新しき葡萄酒は新しき革袋へ』です。」

新訳ラッシュの前、各出版社に対して、内藤濯氏の創り出した〈星の王子さま〉というタイトルを使わないでほしいと主張されました。しかし結局、本のタイトルには著作権が発生しないということで、使うなら〈内藤濯の創案〉であることを附記してほしいというアナウンスにとどまることになります。

この翻訳では、内藤濯氏に敬意を持って挑戦するという意味でも、〈星の王子さま〉というタイトルをあえて使いません。そしてもし商業的理由によって、様々な翻訳が『星の王子さま』というタイトルに制約されるのであれば、翻訳の自由もおびやかされているのかもしれません。

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