近ごろ、ある地方の小学校の先生たちが、子どもたちを自分たちの思想に染めようとして、日本に昔からあるおとぎ話に、いろいろと珍しいオリジナルの解釈をつけて教えていたということが、新聞のニュースで報道されました。
詳しい事実関係ははっきりしませんが、なんでも「さるかに合戦」のお話に出てくる「さる」が資本家で、「かに」が労働者ということになっており、かにが働いて育てた柿の実を、さるという権力者が横領して搾取するストーリーなのだそうです。
なるほど、そう言われれば、そのように見えなくもないかもしれません。
しかしその一方で、何年も愛情を込めて育ててきた大切な子どもたちを、安心して学校に預けている「思想に染まっていない普通のおやごさんたち」の気持ちからすれば、せっかく苦労して育てた大事な大事な我が子を、偏った思想を持つ先生のせいでめちゃくちゃにされてしまったと感じるかもしれません。
そう考えると、この場合における「さる」は先生であり、「かに」はおやごさんたちということになります。
また、親が長年の苦労の末に蓄えた貯金を、思想にかぶれた息子や娘が政治運動の資金として持ち出してしまったとすれば、その場合の「さる」は子どもであり、「かに」は父親ということになります。
さらに、その子どもをそそのかして父親の金を持ち出させた親ざるは、やはり一種の搾取者と言えるでしょう。
桃太郎が鬼ヶ島を征服するのがいけないのであれば、東海の仙境・蓬莱の島を、「ハンマーと鎌」の旗印を掲げて征服してしまおうとする赤い桃太郎も、やはり同じようによくないことだと言えるでしょう。
こんなくだらないことを、右と左の二つの派閥に分かれてお互いに言い合っていたのでは、秋の夜長であっても、話題が尽きることはなさそうです。
手ぬぐい一本であっても、箸一本であっても、物は使いよう次第で人を殺すこともできれば、人を助けることもできるというのは、言うまでもないことです。
そもそもおとぎ話というものは、大まかに言って、人間世界で実際に起きた出来事や、その法則性を、特殊な「たとえ話」の形にして表現したものです。
お話の中には、さるやかんが出てきたり、栗のイガや、お餅をつく石臼のようなものまで登場しますが、それらは実は、みんなそのような仮面をかぶった人間の役者たちの変装なのです。そして、そうした変装した登場人物たちの間で起こるさまざまな事件やトラブルも、実際にはほんの少し違った形で、私たちの日常生活のすぐ近くのどこかで、常に起こっていることなのです。
その出来事が良いことだとか悪いことだとかいう道徳的な批判を超えて、実際にこの世の中に起こっている紛れもない事実なのです。
おにぎりと柿の種の交換といったようなささいなやり取りでさえも、私たちが毎日行っていることと変わりません。
月謝を払って学校に通うことも、保険に入ることもすべてそうです。
お寺にお金を納めて来世の幸せを願うこともそうですし、泥棒の親分が子分たちを働かせずに遊ばせて食べさせていることもそうです。
それが良いことか悪いことかは別として、この世の中に実在する事実なのです。
世の中にはさるのような人もいれば、かにのような人もいるというのもまた事実であり、それはこの世界にさるがいて、かにがいるという自然の事実と同じようなものです。
世の中にさるのような存在がいるのはけしからんと怒ってみたところで、世界中のさるを絶滅させることは難しいことです。
また、かにの弱さや気弱さをどれだけ責め立てたところで、人間の力が及ぶかぎり、かにをさるよりも強くすることはできません。
蜂やイガ栗や石臼が、かにの味方として登場してくるのも、やはり自然の法則に従って出てきているのであって、もし法律で蜂と栗と石臼の登場を禁止したとしたら、今度は代わりに、さそりやバラや漬物石が飛び出してくるかもしれません。
また、もし桃太郎が生まれなかったとしたら、その代わりに栗から生まれた「栗太郎」が、お団子の代わりにアンパンやキャラメルを持って、猫やカンガルーを連れていき、やっぱり鬼ヶ島を征服しに行くことでしょう。
いくら「そんな不都合なことはいけない」と口で言ったところで、どうしても誰かが征服しに行ってしまうのが、この現実世界の事実なのです。
その証拠は、どの歴史の教科書を開いても、最初の二、三ページを読めばすぐにすぐ見つかるはずです。
おとぎ話というものは、そうした人間世界の事実と法則を教えてくれる、科学的な教科書なのです。
そして、どうすることが善いのか、あるいは悪いのかといった、限定的な道徳論や批判、解説を付け加えて説明するには、あまりにも広大で無限の意味を持ったものなのです。
それを適当に、ほんの一面的な偏った注釈をつけて片付けてしまっては、せっかくのおとぎ話も完全に台無しになってしまいます。
おとぎ話はおとぎ話のままでよいのです。
おとぎ話は、物理学の教科書が「石は上から下へ落ちる」という事実を淡々と教えるのと同じです。
善かろうが悪かろうが、落ちる石は下へ落ちていき、上へは戻りません。
この事実をどのように利用するかは、それを使う人の自由です。
この重力の仕組みを利用して、お米をつくこともできますが、同時に、それで人を殺すこともできるのです。
もし、重力の講義をする物理学の先生が、「重力というのは時々人を殺すから不都合なものだ」と言って生徒を叱り飛ばしたりしたら、それは滑稽さを通り越して、もはや狂気の沙汰と言えるでしょう。
しかし、おとぎ話に対して下手な批評や注釈を加えることは、まさにこれとそっくりな滑稽さに堕ちてしまう危険性をはらんでいるのです。
これに関連して私が思うのは、今日の学校で行われている普通の教育のやり方には、何か共通した、機械的な形式主義が潜んではいないかということです。昔の小学校の先生などとは違って、あまりにも立派な教育者としての素養がありすぎるために、またその上に文部省の監督があまりに行き届きすぎているために、教室での授業が窮屈で細かな型にはまってしまって、その結果は自由に広大であるべきものを極端に制限してしまっているのではないかという疑いがある。
例えば小学校の理科のカリキュラムといったようなものを見ても、その準備が立派であると同時に料理の材料がすっかり限定されてしまって、生徒はそれだけを食べて満足するが、他に食べ物があることを一切忘却してしまう。
そうして、今度ひとりで旅に出ると宿屋の食卓のおかずの食べ方がわからないといったような傾向があるのではないか。
一本の稲の穂を教材にするのでも、一生懸命苦労して三日も四日も徹夜してカリキュラムを作ってから臨むから、かえってよくないのではないかと思う。
不意に取ってきた一草一木を机の上に置いて一のあいだ無言で子どもたちといっしょにいじくり回したり虫眼鏡で見たりするほうが、場合によってははるかに有効な理科教育になるということもありはしないか。
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