初級翻訳・なめとこ山の熊 第3話

なめとこ山の熊

ところが、ある年の夏、こんなおかしなことが起こったんだ。
小十郎が谷の川をチャプチャプと渡って、ある岩にのぼったときのこと、すぐ目の前の木に、大きな熊がまるで猫みたいにせなかをまるくして、スルスルとよじ登っていくのを見たんだ。
小十郎はすぐに鉄砲をかまえた。
連れていた犬は大喜びで木の下へ走り寄り、木のまわりをグルグルとものすごい勢いで駆け回った。
すると、木の上の熊は、しばらくの間、木から降りて小十郎に飛びかかろうか、それともこのまま鉄砲で撃たれようか、じっと迷っている様子だったんだ。だけど、いきなり両手を木からはなして、ドタリと地面に落ちてきたのさ。
小十郎は油断しないで銃をしっかりかまえて、「いつでも撃てるぞ」と思いながら近づいて行った。すると熊は、両手を上げてこう叫んだんだ。
「おまえは一体、何がほしくておれを殺すんだ?」
「ああ、おれはお前の毛皮と、胆(きも)のほかには何もいらないんだ。
それも、町へ持って行ってものすごく高く売れるわけじゃないし、本当にかわいそうなんだけど、やっぱりどうしようもないんだよ。
だけどお前に、今ごろそんなことを言われると、もうおれなんか、山で栗やシダの根っこでも食べて、それで死ねるなら、いっそ自分も死んでしまってもいいような気がしてくるよ……」
「もう二年だけ待ってくれ。おれだって死ぬのはもういつだってかまわないんだけれども、少しやり残した仕事もあるんだ。だから、ただ二年だけ待ってくれ。
二年目には、おれがおまえの家の前へ行って、ちゃんとそこで死んでいてやるからさ。
そうすれば、毛皮も胃袋も、すっかり全部持って行っていいからさ」

小十郎はなんだか変な気持ちになって、その場にじっと考え込んで立ち尽くしてしまったんだ。
熊はそのすきに、足の裏をぺったりと地面につけて、ものすごくゆっくりと歩き出した。
小十郎はやっぱりぼんやりしたまま立っていた。
熊は、「この小十郎はいきなりうしろから鉄砲を撃ったりしない人間だ」ということがよく分かっているみたいに、うしろも振り向かずに、ゆっくり、ゆっくりと歩いて行ったんだ。
そして、その広くて赤黒いせなかが、木の枝の間から差し込んだ太陽の光にキラッと光ったとき、小十郎は「ううっ」と切なそうにうなり声をあげて、すごすごと谷を渡って家に帰りはじめたのだった。

それから、ちょうど二年目のことだった。
ある朝、小十郎が「昨夜はものすごい風だったから、木の枝やかきねも倒れちまっただろうなあ」と思って外に出てみたんだ。そしたら、ヒノキのかきねはいつもの通りなんともなくて、そのすぐ下のところに、あのときからずっと忘れられなかった、あの赤黒い毛並みのものが横たわっていたんだ。
ちょうど二年目だし、「あの約束の熊がやって来るかもしれないな」と少し心配しながら待っていたところだったから、小十郎は心臓が止まりそうなくらいドキッとしたよ。
そばに寄って見てみると、間違いなくあのときの熊が、口から血をいっぱいに吐いて倒れていたんだ。
小十郎は思わず、その熊に向かって手を合わせて拝んでいたよ。

それからまた月日は流れて、ある年の1月のことだった。
小十郎は、その日の朝、家を出るときに、今までに一度も言ったことのない、ある不思議な言葉を口にしたんだ……。「ばあさま、おれも年をとったのかなあ。今朝は生まれて初めて、冷たい水に入るのがなんだかいやな気がするよ」
すると、縁側の日なたで糸を紡いでいた九十になる小十郎の母親は、そのほとんど見えなくなった目を上げてちょっと小十郎の方を見ると、なんだか笑っているような、それとも泣いているような、そんな不思議な顔つきをしたんだ。
小十郎はわらじのひもをしっかりと結んで、「よっと!」と気合を入れて立ち上がり、家を出発した。
子供たちはかわるがわる馬小屋の前から顔を出して、「じいさん、早めに帰ってきてよ!」と言ってニコニコ笑った。
小十郎は、雲ひとつないまっ青ですいつこまれるような空を見上げて、それから孫たちのほうを向いて「行ってくるからな!」と言ったんだ。
小十郎は、まっ白な硬く凍った雪の上を、白沢(しらさわ)という方へ向かって登っていった。
連れていた犬は、もう息をはあはあハーハーと荒く吐き、赤い舌をダラリと出しながら、走っては止まり、走っては止まりしてついてきた。
やがて小十郎の姿は丘の向こうへと沈むように消えて見えなくなってしまい、残された子供たちは、ヒエの藁(わら)で飾りをつけて楽しく遊んだよ。
小十郎は白沢の岸に沿って、川をさかのぼっていった。
川の水はまっ青な深い淵(ふち)になったり、まるでガラスの板をしいたようにピカッと凍りついていたり、つららが何本も何本も数珠(じゅず)のようにつながって下がっていたりした。そして川の両側の崖からは、赤や黄色のまゆみの実が、まるで花が咲いたようにひょっこりと顔を出していたんだ。
小十郎は、自分と犬の影法師がちらちらと光りながら、白樺(しらかば)の木の幹の影といっしょに、雪の上にクッキリとした藍色(あいいろ)の影になって動いていくのを見つめながら、どんどん上流へと歩いていった。
白沢から山を一つ越えたところに、一匹の大きな熊が棲(す)んでいるのを、夏のあいだにちゃんと見つけておいたんだ。
小十郎は、谷に入ってくる小さな支流を五つも越え、何度も何度も右から左へ、左から右へと冷たい水を渡りながらさかのぼっていった。
しばらく行くと、そこに小さな滝があった。
小十郎はその滝のすぐ下から、長根(ながね)というほうの斜面へ向かって、登り始めたんだ。
まわりの雪はあまりにもまばゆくて、まるで燃えているんじゃないかと思うくらいだった。
小十郎は、自分の目がすっかり紫色のサングラスをかけたようになってしまったような気がしながら、黙々と登っていった。
犬のほうも、「あんな険しい崖(がけ)だって絶対に負けないぞ!」というふうに、何度も足を滑らせそうになりながらも、雪にしっかりとかじりついて必死に登っていったんだ。
やっとのことで崖を登りきると、そこはまばらに栗の木が生えている、ごくゆるやかな斜面の平らな場所だった。雪はまるで高級な大理石のようにギラギラとまぶしく光り輝いていて、まわりをずーっと高い雪の峰々がニョキニョキと取り囲んでいた。
小十郎がそのてっぺんで一息ついて休んでいたときだった。
いきなり犬が、火がついたようなものすごい勢いでほえ始めたんだ。
小十郎がびっくりしてうしろを振り返ると、あの夏にしっかり眼をつけておいた大きな熊が、なんと両足でしっかりと立ち上がって、こちらへまっすぐに向かって突進して来たんだ!
小十郎はさすがに落ち着いて足をしっかりと踏んばり、鉄砲をぐっと構えた。
熊はまるで棒のような両手を大きく振り上げて、まっすぐに走ってきた。
さすがの小十郎も、このときばかりはちょっと顔色が青くなった。
ピシャッという鋭い音がして、鉄砲の発射音が小十郎の耳に届いた。
ところが、熊は少しも倒れることなく、まるで嵐(あらし)のように黒く不気味にゆれ動きながら、ものすごい勢いで迫ってきたんだ。
犬がその熊の足もとにガブリと噛(か)みついた。

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