初級翻訳・なめとこ山の熊 第2話

なめとこ山の熊

小十郎が、小屋のすぐ下にわき水があったことを思い出して、少し山を降りかけたら……びっくりしたことに、お母さん熊と、やっと一歳になるかならないくらいの小さな子熊の二匹が、ちょうど人間が額に手をあてて遠くを眺めるようなポーズで、うすい六日目の月の光の中、むこうの谷をしげしげと見つめているのに出くわしたんだ。
小十郎は、その二匹の熊のからだから後光が差しているように感じて、まるで釘(くぎ)を打たれたようにその場に立ちどまり、じっと見つめてしまったんだよ。

すると、子熊が甘えるように言ったんだ。
「どうしても雪だよ、おっかさん。谷のこっち側だけ白くなっているんだもの。どうしても雪だよ、おっかさん」
すると、お母さん熊はまだしげしげと見つめていたけれど、やっとこう言った。
「雪じゃないよ。あすこだけに降るわけがないんだもの」
子熊はまた言った。
「だから、とけないで残っているんでしょう」
「いいえ、おっかさんはアザミの芽を見に、昨日あそこを通ったばかりです」
小十郎もじっとそっちを見た。
月の光が青じろく山の斜面をすべっていた。そこがまるで銀のよろいのように光っていたんだ。
しばらくして、子熊が言った。
「雪でなけりゃ、霜(しも)だねえ。きっとそうだ」
(ほんとうに今夜は霜が降るぞ。お月さまの近くの空もあんなに青くふるえているし、第一、お月さまの色だってまるで氷のようだ)と、小十郎はひとりで思った。
「おかあさま、わかったよ。あれねえ、ひきざくらの花だ」
「ななんだ、ひきざくらの花かい。ぼく知っているよ」
「いいえ、お前まだ見たことありません」
「知ってるよ、ぼくこの前とってきたもん」
「いいえ、あれはひきざくらじゃありません。お前がとってきたのはきささげの花でしょう」
「そうだろうか」子熊はとぼけたように答えたよ。

小十郎は、なぜだかもう胸がいっぱいになって、もう一ぺんむこうの谷の白い雪のような花と、夢中で月光をあびて立っている母子の熊をちらっと見て、それから音を立てないように、こっそり、こっそり、もどり始めたんだ。
風がそっちへいかないでくれ、どうか気づかないでくれと思いながら、小十郎はそろそろと後ろへ下がっていった。
くろもじの木のいい香りが、月の明かりといっしょにすうっとただよってきたよ。

ところが、このりっぱな小十郎が、町へ熊の皮と胆を売りに行くときのみじめさといったら、まったく見ていられないほど気の毒だったんだ。
町の中ほどに大きな荒物屋(あらものや)があって、ざるや砂糖や砥石(といし)、金天狗(きんてんぐ)やカメレオン印のタバコ、それにガラスのハエとりまで並べていた店だった。
小十郎が山のように毛皮をしょって、そこのしきいを一歩またぐと、店の人たちは「また来たのか」というように、うす笑いを浮かべるのだった。
店の奥の間に大きな唐金(からかね)の火鉢を出して、主人がどっかりと座っていた。
「旦那(だんな)さん、先日はどうもありがとうございました」
あの山ではまるで王様のような小十郎は、毛皮の荷物を横におろして、ていねいに床板(ゆかいた)に手をついて言うのだった。
「はあ、どうも。今日は何の御用です?」
「熊の皮をまた少し持ってきました」
「熊の皮か。この前のやつもまだそのまましまってあるし、今日はもういらないよ」
「旦那さん、そう言わないでどうか買ってくだせえ。安くてもいいですから」
「どんなに安くてもいらないね」
主人は落ち着きはらって、キセルをトントンと手のひらにたたきつけるんだ。あのりっぱな山の王者・小十郎は、こう言われるたびにもう心配そうに顔をしかめるのだった。
なにしろ小十郎の家では、山には栗(くり)があったし、家うしろのわずかな畑からはヒエがとれたけれど、お米などは少しもできず、味噌(みそ)もなかったから、九十歳になるおじいさんと子どもたちの計七人の家族を食べさせるために、お米は少しずつでもどうしても必要だったんだ。
里の人たちなら麻も作ったけれど、小十郎の家ではわずかにフジのつるで編む入れ物のほかに、布にできるようなものは何も作れなかったんだ。
小十郎はしばらくたってから、まるでしわがれたような声で言ったものだった。
「旦那さん、おねがいでございます……!」「どうか、いくらでもいいですから買ってくだせえ!」
小十郎はそう言いながら、なんと深々とおじぎまでしたんだ。
お店の主人は、しばらくのあいだ黙って煙をプカプカと吐き出してから、ちょっとニヤッとした顔をあわてて隠して、こう言ったんだ。
「しかたないなあ。
そこに置いていっとくれ。
おい、平助(へいすけ)、小十郎さんに二円(にえん)やってくれ」
店の平助が、大きな銀貨を四枚、小十郎の前にちゃーんと並べて出した。
小十郎はまるで宝物を受け取るみたいに両手でいただき、うれしそうにニコニコしながら受け取ったのさ。
それからというもの、主人はだんだん機嫌がよくなるんだ。
「おい、せっかくだ、小十郎さんに一杯(いっぱい)酒を出してやれ」
このときの小十郎は、もううれしくて胸がワクワクしていたよ。
主人はゆっくりといろいろな話をする。
小十郎はかしこまって、山の様子やいろんなことをていねいに報告するんだ。
するとまもなく、台所の方から「お膳(ぜん)ができましたよ」と知らせが来る。
小十郎は「いえいえ、そんな申し訳ない」と最初は遠慮するんだけど、結局は台所の方へ引っ張っていかれて、そこでもまたていねいにおじぎをするのさ。
しばらくすると、塩引きのサケのお刺身や、イカの切り込み、それに一本のお酒が、黒くて小さな膳にのって運ばれてくる。
小十郎はちゃんときれいに座って、イカの切り込みを自分の手の甲にのせてペロリとなめたり、おそれ多いといった様子で黄色いお酒を小さな猪口(ちょこ)に注いだりしているんだ。

いくら昔は物価が安かったといっても、立派な熊の毛皮が二枚でたったの二円なんて、誰がどう考えたって安すぎるよね。
もちろん、こんなのめちゃくちゃ安いし、そんなの小十郎だって分かっていたんだ。
それなのに、どうして小十郎は、そんな町の意地悪な荒物屋なんかじゃなくて、ほかのもっと高く買ってくれる人のところへ売りにいかなかったんだろう?
その理由はね、大ていの人にはよく分からないかもしれない。
だけど、昔からの遊びで「狐拳(きつねけん)」っていうのがあるでしょ? 狐は猟師に負けて、猟師はその上の旦那様には負けるって決まっているんだ。
この山でも同じで、熊はやさしい小十郎にやられ、その小十郎はこの町の旦那にやられてしまうんだよ。
でも、この町の旦那は町のみんなの中に隠れているから、熊に食べられたりしない。
だけど、こんな意地悪でずるい連中は、世の中が進歩していけば、いつかきっと自分ひとりで消えてなくなっていくものなのさ。
僕はね、しばらくの間だけでも、あんなに素晴らしい山の王者・小十郎が、二度と顔も見たくないようなどうしようもない奴らにうまく丸め込まれているのを見ると、悔しくて悔しくてたまらないんだ。

こんなふうだったから、小十郎は山で熊たちをやっつけてはいたけれど、決して熊たちのことを憎んでいたわけではなかったんだよ。

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