初級翻訳・へちまの木 第5話

へちまの木

「この家じゃあ、まともなものなんて食べさせてくれないのさ」と木内が教えてくれた。「一年じゅう麦めしに漬物だけ、十五日と大晦日だけは味噌汁が一杯出るけれど、そのときは汁の中の具を皿に取ったのがおかずになるだけで、ほかには漬物すら食わせてくれないんだとさ」
「夫婦そろって同じものを食べてるのかい?」
「女狐のその日の機嫌次第らしいぜ」
「嘘みたいな話だな」と言って房二郎は首を振った。「……なぁ、その記事の仕事、手伝おうか?」
「無理だな」木内はお弁当の包みを開きながら言った。「間男の現場を押さえた亭主が、女房と相手の男を包丁で斬り殺したっていう事件だからな。まぁ、気が向いたらまた写しの仕事を続けてくれよ」
 房二郎は、文華堂に入ってからずっと、『仮名書女庭訓(かながきじょていきん)』という本の書き写しをしていた。
原本は高名な漢学者が書いたもので、元々のタイトルは『啓蒙婦女庭訓』といい、世間で広く読まれている評判の本だった。
その文章を少しずつ書き換え、分かりやすい仮名書きにして売り出そうというわけだ。
要するに偽本を作るようなもので、房二郎は一文字書くたびに、恥ずかしさで汗が吹き出る思いだった。「商売だよ、商売」と木内桜谷は慰めてくれた。「人間、生きていくためには、どんなに恥ずかしいことだって我慢しなきゃならないときがある。気にしなさんな、そのうちに慣れるさ」

四

「そんなところで寝ちゃだめよ、風邪をひいちゃうじゃない。起きてよ、房さん」
「お前は誰だ」と房二郎は言った。「ここは一体どこだ」
「あなたの部屋があるうちじゃないの、小舟町よ」
 房二郎は頭を持ち上げておるいを見、「ああ、あんたか」と言うとまた目を閉じ、畳の上で仰向けに寝返りを打った。
「ダメねえ、飲めもしないくせに」おるいは立ち上がり、坊主枕と掻巻(かいまき:綿を入れた着物風の寝具)を持って来て、房二郎に枕をあてがい、掻巻をかけてやった。「苦しいんじゃないの、水を持ってきましょうか」
 房二郎には聞こえなかったらしい。「――いっそ乞食にでもなればよかった」とつぶやき、掻巻の中に顔をうずめた。
どうやって自分の部屋に入ったのか、房二郎にはまったく記憶がなかった。
肩をゆすられて目を覚ますと、枕元におるいがいて、湯呑茶碗を差し出した。
「これを飲んで」とおるいは言った。「嫌だろうけれど、二日酔いには迎え酒がいちばん効くんだって。鼻をつまんでもいいから飲んでごらんよ」
 房二郎は起き上がってその湯呑みを受け取ったが、燗をした酒の匂いを嗅いだ途端、胸がムカムカして危うく吐きそうになり、顔をそむけておるいに突き返した。
「それじゃあ今日はゆっくり休んで寝ていらっしゃい」
「そうします」房二郎は横になりながら言った。「誰か人を頼んで、文華堂へそう伝えてくれませんか」
「いいじゃないの、そんなこと」おるいは掛け布団を直しなが言った。「あんな嫌らしいお店なんて、もうやめてしまいなさいよ」
「やめてどうするんだ」
「昨日の夜は、乞食になればよかったって言ってたわよ」とおるいは言った。「その気にさえなれば、あなたは何をなさったって、きっと人の上に立つようなすごい仕事をものにできるわ」
いっそ山へでも入ってしまいたいよ」
「何言ってるの、まだ世の中を覗いたばかりの若い身空のくせに。さあ、ひと眠りしなさい」おるいは掛け布団を直しながら言った。「そうすればまた元気が出るから」
 房二郎はすぐに眠りに落ちた。
ほんの少ししか眠らなかったような気持だったが、話し声が聞こえて目を覚ますと、行燈(あんどん)に火が灯っていて、その脇の膳に向かい、木内桜谷が酒を飲んでいた。
房二郎が声をかけると、木内はよく動く目を細め、顔をクシャクシャにして笑った。
「朝、この家から使いが来たもんでね、どんな様子か見に寄ったんだよ」
「そんな心配してもらう必要はなかったのに」
「昨日の今日だからな」
「というと、――何かあったのかい」
「忘れちまったのかい」と木内はおいしそうに酒をすすりながら言った。「今月から手当を決めてくれって、あのちょび髭に直談判したんだろ」
 「ああ」と言って、房二郎は顔をしかめた。
ちょび髭の文華とのやり取りを思い出したのだ。
雇われてから約四十日、見習いということで、これまで一銭の手当も出ていなかった。
桜田小路の家から持って来た金も残り少なくなってきたので、思いきって文華に申し出たのだった。
房二郎より三寸(約9センチ)以上も背の低い文華は、ちょび髭をなでながら、何度も咳き込んだ。
――手当や手当や言うても、こっちも商売やよってにな、と文華はお決まりのセリフを吐いた。本当はな、記事屋というものは、店から手当をもらうより、記事のネタを自分で金にするものと決まったもんやがな。
――記事のネタを金にするとは、どういうことですか。
――桜谷はんに聞いてみなはれ、と文華は三角の小さな目を意地悪く細めた。それにだな、弁当屋から弁当を取り寄せて食べるような結構な身分で、銭こ(お金)のことを言うなんて似合いまへんで。
そのとき房二郎は、そのちょび髭を思いきり殴りつけたくなったが、急に自分が情けなくなって、文華の前からすごすごと引き下がった。
こんな卑しい写し物の仕事をして、給料をもらおうなどと思った自分が、なんともあさましく感じられたからだ。
「木内さん、あれを聞いていたのかい」
「だから酒に付き合ってやったのさ」と木内は言った。「あんたはいつかみたいに梯子酒(はしござけ)をして、『おれは泥棒になりてえんだ』って、大声で言い続けてたぜ」
 その気持ちは痛いほどよくわかる。
だが、この世の中はきれいごとだけで生きていけるほど甘くはない。
瓦版屋(かわらばんや)はごまんといるが、ごまかしのない本当の記事だけで売れている店は、ほんのひと握りだ。
あとは大なり小なり悪質な、作り話や事実無根のとんでもない記事で、どうにかこうにか食いつないでいる――それが大半の現実なのだ。
その中で文華堂がかろうじて店を構えていられるのは、おそでが金を持っているからで、貸家も十軒ほど持っているし、どうやら小金貸しもやっているらしい。それがなければ、古い版木を彫り直したり、お札の絵を売ったりするだけでは、とうていやっていけないだろう、と木内桜谷は語った。「おれだって、いまのような仕事をしているのは恥ずかしいよ」木内は酒をすすり、うなだれた。「自慢にはならないだろうが、房やんの歳くらいのころ、おれは芝居の作者になりたくて、いろんな作者部屋に出入りしていたんだ。竹柴宗七の代作として、実際に舞台に乗せてもらった台本が五本ほどあった。あのまま順調にいっていれば、今ごろは一人前のメイン作者になっていたかもしれないな」
 それが女のことが原因で、と言いかけたとき、おるいが酒を持って部屋に入ってきた。
「あら、起きたの」おるいは房二郎を心配そうに見つめた。「気分はよくなった?」
「どうやらね」と房二郎は起き上がり、「少し酒が欲しくなったよ」と言った。
 おるいは酒を木内桜谷の膳に置き、いそいで房二郎のそばへ寄ると、着物と丹前をうしろから着せかけ、結んであった平ぐけの帯を解いて手渡した。

コメント

タイトルとURLをコピーしました