初級翻訳・山彦乙女 第13話

山彦乙女

しかし、矢に射抜かれた白鷺(しらさぎ)が一羽、ばたばたと暴れながら落ちてきて、木陰の暗い地面の上で、無残に白い綿毛を散らすのが見えた。
そしてこの家の右奥の方から、浴衣姿で腰に刀も差していない侍が一人、なにやらニヤニヤと笑いながら歩いてきて、
「それ見たことか、鷺(さぎ)だぞ」
こう言いながら、まだ地面でもがいている鳥を、庭下駄でグイと蹴っ飛ばした。
「こっちへ来てみろ、こいつは臭くて、とても持ってやれやしないや」
誰かがそれに返事をしたようだが、半之助には何と言っているのか聞き取れなかった。
「それにしても、さすがは菱屋庄兵衛(ひしやしょうべえ)だな、鳥の喉の真ん中を正確に射抜くなんて見事なもんだ」
また別の男の声が答えた。
こちらの男は、(背は五尺そこそこ、つまり百五十センチほどしかなかったが、筋肉がモリモリと発達した体つきをしていて、口が大きく、眉は太くて短く、目つきが鋭い顔立ちをしていた)遠慮会釈もなくケラケラと笑って、
「バカを言うな、次高(つぎたか)のみじん流の剣術じゃないんだから、弓なんて見世物みたいなもんさ」
こう言い捨てると、もう一度鳥を足で蹴飛ばしてから、自分がやってきた方へと引き返していった。
主馬(しゅめ)が戻ってくるまでの間、半之助は、胸のどこかがチリチリと痛むような、不思議な居心地の悪さに囚われていた。
弓で射られたのは、あくまで木の上にいた鷺である。
それは今も目の前の地面の上に、矢が刺さったまま横たわっているのがハッキリと見える。
けれども、半之助にはどうしても、その鷺が、さっき聞こえたあの若い女性の呼び声の主であるかのように思えてならなかった。
若くて、清らかな、あの女の声――それが矢に射抜かれたとたん、目の前で白い鷺の姿に変身してしまった。
そんなふうに感じられて仕方がなかったのだ。
――いったい誰なのかは知らないけれど、こんな可愛いそうなことをするなんて、ひどい話だな。
やがて、主馬が戻ってきた。
「まったく、タチの悪いいたずらをするやつらだな」
彼もいまの光景を見ていたらしい。
「どうだ、ちょっとひと風呂浴びないか」
主馬はそう言って半之助を促し、一緒に廊下に出ながら話し始めた。
「いま弓を射ていたのは菱屋庄兵衛といって、柳沢(やなぎさわ)藩の家来なんだ。弓の腕にかけては江戸で一番だそうだけど、京都の三十三間堂(さんじゅうさんげんどう)で有名な通し矢をするっていう触れ込みで、いまあちこちから熱心に矢の寄進を募っているんだ。もっとも、本当にあんな大舞台で通し矢をやり通せるかどうかは、大いに怪しいもんだけどね」
「もう一人の男も、柳沢の人間なのか?」
「そうさ。次高来太(つぎたからいた)といって、みじん流の剣術の使い手だそうだ。この家の主人が柳沢家にすり寄っているものだから、あいつらはここを自分たちの都合の良い遊び場、つまり宿坊のように勘違いして使っているらしいのさ」
「くだらない連中だな」
いかにも変わった造りの風呂舎(ふろしや)に入りながら、半之助はすっかり興ざめした顔で言った。
「これが、君が言う『見せてくれる証拠』ってやつなのか?」
「まあそう慌てるな、時間はたっぷりあるさ。まずは美味い物を食ってからのことだからね」
風呂舎もやはりすべて檜(ひのき)の木材でできており、三方が板張りになっていた。天井には当時としては極めて贅沢なガラス製の吊り灯りが下がっていて、入口の戸をぴたりと閉めると、高さが一丈(約三メートル)、広さが周囲八尺(約二・四メートル)ほどの、まるで小さな箱の中にいるような空間になった。
床の下はすのこになっていて、その隙間からもうもうと湯気が吹き上がってくる、いわゆる蒸し風呂だった。
ところが、二人が入浴の準備をしていると、彼らのあとに、腰に小刀を一本差しただけで、豊かな胸のふくらみをあられもなく露わにした若い女が二人、すーっと入ってきたのには、半之助はさすが面食らい、大いに困惑してしまった。
「これはちょっといけないな、外に出てもらうとしよう」
半之助が小声でそう囁くと、主馬はニヤリと笑って言った。
「馬鹿なことを言っちゃいけないよ。ただの垢擦り(あかすり)の女たちじゃないか。そんな子供みたいな顔をしていたら、後で笑われるぞ」
女たちは一切言葉を発せず、二人の髷(まげ)を器用にほどくと、湯気でじっとりと汗ばんできたその柔らかな手で、全身の皮膚を巧みにこすり、みるみるうちに垢を揉み出していった。
「垢擦り」とはよく言ったもので、こすられる端からいくらでも垢がポロポロと出てくる。そのうえ、よほど力を入れてくれているのだろう、女たちの荒い息づかいが間近に聞こえ、さらに、湯気で熱せられた若い女の体臭や、化粧の香油の匂いが風呂舎の中にむんむんとこもり、半之助は居たたまれなくなって、少なからず閉口させられたのだった。「今日は静かだね」
主馬は平気で、自分の担当である女に、そんなふうに話しかけた。
「丸茂の爺さんは来ているのか」
「はい、いらしゃっています」
「神田橋のほかに、客は誰だ」
「わたくしどもの存じ上げない方でございます」
「四、五人いるらしいな」
女はそれには答えなかった。
主馬はおしまいに、すばやく小声で囁いた。
「あとであの部屋を頼むよ」
女はそっと頷いた。
五

風呂から上がり、髪を結い直して浴衣を着せられ、座敷へ戻るとまもなく、別の女中が三人で、酒と肴を運んできた。
「また酒か」
「まあ飲んでごらんなさい。酒には違いないが、ちょっとそこらでは手に入らない代物だからね」
主馬はそう言って、神酒徳利(みきどくり)のような形の素焼きの徳利から、とろりと重たげな、紫色をした液体を半之助の盃に注いだ。
盃も一般のものとは変わっていて、高坏(たかつき)に似た、足のついたかなり大きな代物だった。
「葡萄酒じゃないのか」
そっと香りを嗅いでみて、半之助が尋ねた。
子供の頃、オランダ渡りだと言って進物に貰ったものを、父親に少し飲ませてもらったことがあるが、香りも味も、それにほぼ似ているようだった。
「まあそう言ってもいいけれど、こいつはえびづる草といって、自然に生える山葡萄の実で醸したものなのさ。仕込んでから十五年も経つそうで、延命長寿の薬酒だということだ」
「長生きなんてごめんだね」
だが半之助は、舐めるようにその味を確かめた。
淡い渋さと、とろりとなれた甘さが、舌を魅了するように美味しかった。
「庭、庭……」主馬が突然囁いた、「そっと見ろ、そっと、気づかれないように」
盃を口に当てながら、半之助は目の隅でそちらを見た。
この家の召使なのだろう、町家風に袴を穿いた二人の若者が、三人の中老の武家を案内して通りかかるところだった。
先頭の一人はわからないが、次が水野肥前守、後ろは大久保長門守。
二人とも御側衆(おそばしゅう)だった。
「先の一人は誰だ」
「侍従だよ」
「――侍従とは」
「吉里さ」
半之助は振り返り、奥の方へと去っていくその後ろ姿を、改めて見直した。
吉里といえば、従四位侍従の柳沢吉里、つまり美濃守吉保の長男である。

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