初級翻訳・竜と虎 第3話

山本 周五郎

「自分からは言いにくいから、拙者に是非とも取り次いでくれと頼まれ、よんどころなくお願いに上がったのですが、承知していただけませんでしょうか」

「すると、嫁に欲しいという当人は誰だ」

「八木次郎太でございます」

市郎兵衛の顔が、みるみるうちに赤くなった。ほんの一瞬まえまで上機嫌だったのが、まるで殴られでもしたかのように、額まで真っ赤にして凄まじい怒りを爆発させると、
「……こ、この、出過ぎた真似をするやつめ」と、声を張り上げて怒鳴り立てた。「貴様はなんだ、どれほどの身分だというのだ。まだ元服したての若造のくせに、他人の縁談の仲立ちをするとは笑止千万、分をわきまえろ西郡!」
「ですから、それゆえにお叱りを受けるのではないかと思いまして」
「何がお叱りだ、身のほどをわきまえろ、身のほどを! 縁談というものはな、自分の身の始末がつき、一人前の世間付き合いができる者がすることだ。貴様はなんだ、自分の身も固まっていない、いわば半人前ではないか」
「怒鳴るのはおやめください」至もそろそろ我慢の限界が近づいていた。「拙者が若輩者だということは自分でも認めており、最初にお断りしてあります。なにも好んで縁談を持ち込んだわけでも、仲立ちをしようと申し出たわけでもありません。八木に頼むと言われたから、仕方なく、ただ彼の望んでいるところをお取り次ぎしただけです」
「それだ、その出過ぎた真似が問題なのだ。分をわきまえている者なら、そんな話は辞退するのが当然。だいたい貴様は先日のことにしても出過ぎている。何ゆえに……」
「先日の話とこれとは違います。これは……」
「違わん! 儂が言っているのは、貴様が出過ぎたやつだということだ」
「失礼ですが、怒鳴るのは止めてください」
「怒鳴ろうが怒鳴るまいが儂の勝手だ。儂の怒鳴るのまで邪魔をするな。貴様は自分だってギャンギャン喚いていながら、他人のことはすぐに『怒鳴るのなんの』と申す。役目の方でもその通りだ。実際、貴様くらい使いにくいやつは二人といないぞ」
「拙者も同様です。上役として、貴方くらい仕えにくい人はおりません」
「なに、な、なに、儂が仕えにくいだと?」老人は目を剥いた。
「しばしば我慢のならないことがあります」
「言ったな……よし!」竜はついに雲を呼び、虎は風を巻き起こしてしまった。
人々の興味をもって期待していた瞬間が、ついにやって来たのである。
「よく申した。ではすぐに加役を辞退しろ」
「拙者にとってもその方が幸せです。幸い受け持ちの仕事も一段落したところですから、その始末をしてすぐに辞職いたします」
「おう、こちらとしてもその方がさっぱりしていいわ」
きびきびと話がついてしまった。

役部屋へ退いた至が、受け持ちの仕事を片付けているところへ、ようやく八木次郎太が出仕してきた。
挨拶をされたが、至は返事もせずに片付け物に没頭していた。
そして一刻(約二時間)ほどかかってようやく始末を終えた至が、自分用の道具箱をまとめて包むのを見ると、次郎太は不審そうに「どうした、何かあったのか」と訊ねた。
至はむっとした顔で、冷ややかに立ち上がりながら答えた。
「昨日の話は、一応取り次いでおいた」
「ええ……もうか?」
「しかし、取り次いだだけだ。正式なことは内田老職にでも頼むがいい。あの人なら灰島殿の叔父様だし、うまく運ぶだろう。拙者は今日限りで加役を辞める。あとの事は頼むぞ」
「加役を辞める? しかし、それはどうして」
「貴公の知ったことではない」そう言い捨てて行こうとしたが、「注意しておくが、老人が何か怒鳴っても相手にするなよ。あの人は、ときどき訳もなく怒鳴りたくなるんだ。逆らわずにおけばすぐに収まる。本心は善人なんだから」
そう言って足早に立ち去った。

五

菅生川の水が、小春日の暖かい光を浴びて、さざ波を立てながら流れている。
遠く西南の彼方に、城下町の屋根を越えてお城の天守が、逆光の中に明るく霞んでいる。至は枯れた葦(あし)の茂みの間に腰を下ろして、水面に垂れた二本の釣り竿をぼんやりと眺めていた。
うっかりすると眠くなるような、よい日和(ひより)である。
葦切(あしきり)がけたたましく鳴いて飛んでいった。
作事奉行の加役を退いてから六十日余り。あれ以来、急に暇が多くなったので、非番になると彼はこうして釣りにやって来る。
そうは言っても魚を釣るのが目的ではなさそうだ。なにしろ随分と出かけてきているが、まだ小さな鮒(ふな)を二、三匹まぐれ当たりで釣ったばかりで、たいていは空っぽの魚籠(びく)を下げて帰る方が多い。
――至は魚たちへお振る舞い(エサやり)に行くんですね。
と母親は笑っていた。
高い空で、ツグミが渡る声がした。
そして、そのあとのひっそりとした日中の静寂を縫って、品の高い女の話声が近づいてきた。
「ああ、あそこにいますよ」母の声である。
――珍しい、母がこんなところへ。
そう思って振り返ると、堤の上を来るのは母だけではなく、娘が一人一緒だった。
至はどきっと胸を打たれた。それは灰島の娘、幸枝だったからだ。
「至、釣れましたか」母は明るく言いながら寄ってきた。「幸枝殿が珍しくお見えだったから、青野の地蔵尊へお参りをしようと思って出てきましたよ。お前はまた相変わらずのお振る舞いですか」
「しばらくでございました」幸枝がそっと会釈した。「……ご機嫌よう」
「しばらくでした、お変わりもなく」至の声は冷たかった。「ありがとうございます。あなた様にも感謝いたします」

「この子の釣りはねぇ」母は二人のあいだに流れる氷のように冷たい空気をほぐそうと、わざと明るい調子で幸枝に向かって言いました。「魚を釣るのではなくて、御馳走をしに来るんですよ。こんな漁師ばかりなら、魚たちも助かりますね」

「まあ、おば様がお口の悪いことを」
幸枝は遠慮がちに、小さく声を立てて笑いました。

「ねえ、至。少しまでお供をさせてもらったけれど、幸枝殿はお疲れのようすだし、地蔵尊へは私ひとりで参ってきますから、少しのあいだお相手をしてあげておくれ」
「いや、母上、それはしかし」至はびっくりしました。

「いいからお相手をしてあげておくれ。すぐ戻ってきますよ」母は目配せをして、幸枝にもすばやく頷きながら、青野村の方へと去っていきました。

至は黙って竿の先を見つめていました。
幸枝も無言のまま、寂しげにそこに佇んでいました。
今日こうして会うことになったのは、幸枝が動いたからでした。至の母にすがりついてこのような機会を作ってもらうには、武家の娘として並大抵ではない決心が必要でした。
幸枝は、あえてそれをしたのです。
――臆してはならない。
そう決心してやって来たものの、いざその場になるとたじろいでしまいます。しかし、機会は今の瞬間しかありません。この時を逃せば二度と言い出せない言葉を、彼女は持ってきていたのです。

「……西郡さま」幸枝はついに思い切って呼びかけました。「わたくし、いつぞや貴方さまが父に仰っていたことを伺いました。お声が大きかったので聞こえてしまいましたの。それで、八木さまとの縁談が決まりましたので」
「内祝言が済んだとか聞きましたね」至は向こうを見たまま言いました。

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