初級翻訳・竜と虎 第4話

山本 周五郎

「いいえ、まだですわ。矢矧川(やはぎがわ)の工事が終わりましたら、内祝言をいたしますの。もう間もなくだと申しますけれど」
「仲人は誰でした。内田殿でしたか」

「……西郡さま」幸枝は青ざめた顔をしっかりと上げました。「貴方さまは、初めにこの縁談をお取り次ぎなさいました。それでお伺い申し上げるのですけれど、八木さまはわたくしの良人にふさわしい方だと思召しますか? もしも貴方さまがそうだと仰るのなら、そうするのがよいと仰るならば……」

「お待ちなさい。拙者が取り次いだのは、そういう意味ではない」
「いいえ、わたくしの伺いたいのはそのことでございます。八木さまは、幸枝の一生を託してよいお方でございましょうか。もしも貴方さまがそうだと仰るのなら……」

「拙者はなにも言いません」至は水面を見たまま遮りました。「拙者に何が言えますか。これは貴女のことだ。もう貴女も子供ではない、自分の生涯のことは自分で解決すべき年になっています」
「貴方のご返事は、それだけですの」

「……これだけです」至は目を伏せました。
「なにもほかに仰って下さることはございませんの? わたくし、今日は自分にできるだけの決心をして来たのです。おば様にお願いして、ここへ参ったのは、もっと、もっと御本心を……」

至は返事をせずに、竿を上げてエサを付け替え始めました。
……逃げるように、幸枝が去っていく柔らかな足音が聞こえました。

六

母親は間もなく戻ってきました。
そして娘の姿が見えないので不審そうに、「至、幸枝殿はどうなされた」と息子の目を見極めるようにしました。
「いま帰っていきました」
「おまえ……なにか話があったのだろうね」
「いや、なにも」至はじっと水面を見つめていました。「べつに、なにも……」
母親は何か言いたそうでしたが、諦めたような顔で、幸枝の後を追っていこうとしました。

……そのときです。四、五間(約8〜9メートル)下の方で激しい水音がし、「ぎゃあ」という子供の悲鳴が千切れるように聞こえました。
「あら、誰か落ちたのではないか、至!」
「見てきます!」至は立って走っていきました。

四歳くらいの子供が、ひょいと水面に頭を出し、もう一度、水を飲んだ悲鳴を上げると、すぐにまた流れの中へ沈んでいくのが見えました。
「早く、至や、早く!」追いついてきた母親が叫ぶあいだに、手早く服を脱いだ至は、流れの速さを測りながらさっと水へと飛び込みました。

ほとんど同じとき、向こうの枯れ葦(あし)のあいだから、紙のように白い顔をした武家風の若い女が一人、髪を振り乱し、喉を振り絞るような叫び声を上げながら、着物の前が乱れるのも構わず必死に駆けつけてきました。
「ああ、坊が、坊が、ああ!」と狂ったようにそのまま水際へ下りようとするのを、至の母は危うく抱き止めて止めました。
「お待ちなさい、もう大丈夫です!」
「放して下さい、坊が、坊が!」女は激しく身をもがきました。
「大丈夫ですから、貴女はここにいらっしゃい!」

こう言っているあいだに、早くも至は子供を抱いて水面に浮き上がってきました。
すると女は、至の母の手を振り払って水際へ駆け下り、至が泳ぎ着くのを待ちかねて、まるで奪い取るように、両手で子供を自分の胸へ強く抱き締めました。

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