でも、本当はお頼りにしているのですけれど」
幸枝は慎ましく言いながら、至を見上げた。少しも憂いのない、初夏の空のような明るい瞳だった。しかもその明るい瞳の奥には、かなり以前から至にだけ訴えかけていた淡い感情が、ためらいがちに動き始めていた。
「父があのようにわがままになるのは、西郡さまに対してだけですの。本当にお気の毒に思いますが、あのように勝手放題に振る舞えるのは、西郡さまだけなのですから……済みませんが、どうぞお許しくださいませ」
「いや、それはかえって赤面してしまいます。拙者こそわがままで、お父上に向かうと妙に気が立ってしまうのです。実に不思議なことなのですが」
「兄がそう申しておりました」幸枝は笑いたい気持ちを我慢しながら言った。「父上と西郡さまとは、絵に描いた『竜と虎』ですって。喧嘩をしながら、どちらも相手から離れることができないのだそうです」
「ヘソのひねくれた虎ですか」
至と幸枝は、二人で声を立てて笑った。
さっきから八木次郎太は、妬ましげな目で、二人が語り合う様子を見守っていた。もし誰かが見ていたなら、次郎太の目の中にかなり不愉快な色が宿っているのを読み取れただろう。
……庭の向こうで市郎兵衛が「ちょっ、ちょっ、ちょっ、来いよ、来いよ」とホオジロを呼んでいる声が聞こえる。
「まだ鳥を追っていますわ」幸枝はそちらを振り返った。
「あなた様の仕業ですね。悪い人だ」
「でも、あの時はそうするよりほかになかったのですもの」幸枝は悪戯っぽくくすっと笑った。「あの鳥はよく慣れていますからすぐに捕まります。おかげでホオジロもよい運動になりますわ」
「おい、西郡」次郎太が声をかけた。「ちょっとこの書類を見てくれないか」
「ああ、失礼」至が会釈して向き直ると、「まあ、忘れておりました。すぐにお茶にいたしましょう」そう言って幸枝も立っていった。
それから四、五日が経った。
ある日のこと、仕事を終えて帰る途中、日名村(ひなむら)の松並木へさしかかったとき、八木次郎太が妙に気後れした様子で、歩調をゆるめながらふと口を開いた。
「西郡……実は貴公に頼みがあるのだがな」
「なんだ、頼みとは」
「それが、言い出しにくいことなんだ。武士として実に言いにくいことなのだが……」
三
「なんだか、言ってみたらいいじゃないか」
「笑わずに聞いてくれ。貴公を見込んで頼むのだ。……実は、拙者……以前から幸枝殿を妻に迎えたいと思っていた」
「…………」
至の瞳が、そのとき周囲からはっきりとわかるほど曇った。
「未練な話だが、この頃では幸枝殿のことで頭がいっぱいなのだ。どうにも耐えられない。仕事も手につかない始末だ。こんなことを言うのも、貴公を友人として頼りにしているからこそで、なんとも恥ずかしい次第だが、貴公に縁談の仲立ちを頼みたいと思ってな」
至はぐっと、唇を噛みしめた。
――聞いてはならないことを聞いてしまった。
そんな後悔が、胸を鋭く締めつけた。「どうだろう」次郎太は視線の端で至の表情をうかがい、声を哀しげに落として言った。「貴公なら必ずひと肌脱いでくれると信じて頼んでいるのだが、引き受けてはもらえないだろうか」
「……承知した」至は顔を背けたまま答えた。「……うまくいくかどうかは分からない。だが、話だけは取り次ごう」
「そうか、やってくれるか。かたじけない」
次郎太はそう言いながら、唇の端を歪めて微笑んだ。
家に帰った至の様子は、母親が不審に思うほど変わっていた。
亡くなった父は厳格そのものだったが、母親の夏女は甘すぎるほど至を溺愛しており、至もまた、母というより姉に対するような気持ちで、どんなことでも打ち明けて喜びや悩みを分かち合ってきた。
しかし、その日のことだけは違った。
幸枝の様子に自分を慕う感情のきらめきがあったのと同様、実は至もまた、以前から彼女に対して並々ならぬ愛情を抱いていたのだ。
……そればかりではない。つい半月ほど前、至はそれとなく母の心を探ってみたことさえあった。
――ねえ、お母さん。
何か甘えることがあるとき、彼は幼いころの呼び方で母を呼ぶ。
――灰島にいい娘がいるのですがねえ。十八だそうですが、気性がしっかりしていて、利口そうな娘なんですよ。
――なんだい、至。
そのとき母親はあきれたように言った。
――灰島の幸枝さんなら、お前も知っているはずではないか。去年まで家に琴を習いに来ていたではないの。
――へえ、うちへ来ていたのですか。
至はびっくりしたように目を見開いた。
母親は琴の達人で、以前から近所の娘たちに手ほどきをしてやっていた。去年、ふとしたことで指を痛めてからは止めているが、それまでは常に十四、五人の娘たちが稽古に通っていたのである。
しかし、その中に幸枝がいたことなど、至はまったく気づきもしなかった。
――なんだ、そんな縁があったのか。
それなら、いざとなれば話は楽に運べるはずだと考えていたのだ。
それが今日になって、思いがけぬところから根こそぎ覆されてしまった。
聞かない前ならどうにでもなる。しかし、ああして頼まれてしまった以上、もうすべては終わりだ。
友人と見込んで頼むと言われた以上、いや、自分の方がそう信じているという負い目がある以上、自分も好いているとは絶対に言えない。また、恥を忍んで打ち明けてくれた友人を拒むわけにもいかない。いくら考え直しても、逃げ道はなかった。
気遣っていろいろと問いかける母をかわし、その翌日、彼は胸に鉛の玉がつかえているような重い気持ちを抱きながら、いつもより半刻も早く出仕した。
市郎兵衛は庭で小鳥に餌を与えていた。
「おはようございます」
「おお、早いな」振り向いた市郎兵衛は、先日のことなどけろりと忘れた様子で、持っているホオジロの籠を差し出しながら言った。
「こいつだよ、この間逃げたのは」
「…………」
「いちばん慣れているくせに、油断するとすぐ飛び出す。鷹にでも掴まれたらどうするつもりか。まったく気心の知れぬやつだ」
「実は……少々お話があるのですが」
「なんだ、聞こう」市郎兵衛は籠を置いて、如雨露(じょうろ)でさあさあと水をやりながら促した。「……なんだ」
「ここでは申し上げにくいのですが」
「構わん構わん、なんの話だ」
「実は……幸枝殿のことなのですが」
市郎兵衛は如雨露を止めて振り向いた。
老人の目には、期待していたものにぶつかった人の感動がはっきりと現れていた。
「待て待て、まああちらへ上がろう」そう言って大声で、「幸枝、幸枝は居らぬか」と喚きたてた。「ここへ来て片付けてくれ。儂は用事ができたから、よく気をつけて、また逃がさないようにするんだぞ」
四
「さて、聞こうか」居間に座ると、市郎兵衛はすぐにそう促した。
「申し上げます。若輩者がこのようなことを申し上げまして、あるいは怒りを受けるかもしれませんが」
「なになに、その遠慮は無用だ」
市郎兵衛はたいそう上機嫌である。
「実は、幸枝殿を」と至は苦いものを飲み込むように言った。「わが妻に頂戴したいという者がいるのです」
「うん」老人の目が細くなった。
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