初級翻訳・末っ子 第9話

山本 周五郎

それではまるで、鳶に油揚げをさらわれるようなものだ。
「まったく、鳶に油揚げをさらわれるようなものだぞ」と歩きながら彼は呟いた、「そううまくいくものか、冗談じゃない」
細江にわけを話そう、と彼は思った。
清鑑堂へ売りに出しに来たとき、あれは正宗だと娘は言っていたそうである。
そう言い伝えられてはいたが、母娘は(そして亡くなった細江その人も)本当だとは信じていっていなかったのだろう。
そうでなければ、二分二朱(にぶにしゅ)などという安値で売るわけがない。
したがって、本物だとわかった以上、それを相手に知らせるのはこちらとしての当然の義務である。
「だが、知らせてからが問題だ」もし、それなら家宝として買い戻したい、と言われたらどうするか。
まさか「金八十五枚くれ」とは言えない。こちらが清鑑堂から買った代価なら請求できるかもしれないが、自分はいま二分の銀貨にも困っている状態なのだから、おそらく三分二朱(さんぶにしゅ)の工面ですら簡単にはできないだろう。それなのに、金八十五枚の価値があるとわかっているものを、みすみす三分二朱で手放してしまうのはあまりにも残念だった。
「残念どころではない、それはまるで殺生(せっしょう)というものだ」と平五は呟いた、「これを売れば、すぐにも御家人(ごけにん)の株が買える。この家を出て、自分一人で独立することができるんだ。
しかも、おれが見つけ出さなければ、こいつは清鑑堂の店の隅で、いつまでも埃をかぶっていたに違いない。つまり、要するに――」
平五ははっと気を取り直し、額をあげて強く頭を振った。
よくない考えが頭に浮かんでしまったのだ。
彼は心の中で、それは侍らしからぬ考えだ、一人の人間としても恥ずべきことだぞ、と自分を強く叱った。
けれども、一度頭に浮かんでしまった思案は、なかなか消えてはくれなかった。
黙っていればわかりはしないじゃないか、自分の鑑識眼で発見したわけではないか、おまけに、それのおかげで長年の望みがかなうんだ。細江に知らせたところで、かえって事を面倒にするだけだぞ。黙っていろ、黙っていろ――という悪魔の囁きが、しつこく彼につきまとった。
「えいっ」と彼は突然立ち止まって気合を入れた、「えいっ、この野郎、しっかりしろ!」
向こうから歩いてきた通行人が、ぱっと脇へ飛びのいた。
平五の突然の叫び声を聞いて驚いたのだろう。しかしこちらも気味悪くなって、急ぎ足でその場を歩きだした。
平五は三日間にわたって悩み続けた。
家を出て外には出るものの、なぜか足がどうしても越中堀のほうへと向かわないのだ。
細江の家へ行けば、彼女はきっときれいな言葉をかけてくれるだろう。
必ずや優しい言葉をかけて、ことによると「短刀は差し上げます」と無償で返してくれるかもしれない。
おそらく自分は、その甘い誘惑に勝つことはできないだろう。なにしろ、おれはやっかいなことに変な自尊心が強いからな、と彼は思った。
そして三日目の夕方、彼はふと一つの解決手段を思いついた。
それは、あの短刀といっしょに、娘を嫁にもらうということだった。
細江の家名は、生まれてくる子供のうちの誰か一人に継がせればいい。
小出の家はみな子だくさんだから、自分たちにも二人や三人は子供が生まれるだろう。
もちろん、娘といっしょにその母親も引き取る。この条件なら、きっと悪くはあるまい、と思った。
「ばかな話だな」と彼はにわかに晴れ晴れとした顔つきで呟いた、「あんなにもあの娘が好きだったのに、どうして今までそのことに気がつかなかったのか――要するに、欲が深かったんだな」と彼は自分の眉をしかめた、「短刀が惜しいという自分の欲が、どうしても先に出てしまったんだ。あさましいものだな」
明日こそ、細江の家を訪ねよう。
そう固く決心をして家に帰ると、すぐに父に呼ばれた。
呼びに来たのは母で、「お父さまがたいそうご立腹だから、行ったらすぐに謝りなさい」と言う。
なにに怒っているのかと尋ねても、「いいから早く行って謝るんだよ」と繰り返すばかりであった。
父は居間で書きものをしていた。
平五がそこに座ると父はちらりとこっちへ向き直ったが、その顔を見ただけで、ものすごく怒っていることがありありと分かった。
「あの短刀をどうした!」と玄蕃(げんば)はいきなり怒鳴りつけた。
平五はどぎまぎし、「はて、なんのことでしょうか」としらを切ろうとした。
「ごまかしても無駄だ! 正宗の短刀を持っているんだろう、ここへ持って来い!」
「どうして……っていや、父上はいったいどうなさるつもりなんですか」
「きさまなどのような者が持っていい品ではない! おれが預かるから、さっさと持って来いと言っているんだ」
平五は口ごもりながら言った、「それはちょっと困ります。あれは新庄の叔父のものですし、それに……」
「黙れ!」と玄蕃は怒鳴りつけた、「きさまのしたことなど、すべてお見通しなのだ。
主殿(しおみ)がなにもかも話していったぞ。この、このしれ者め、きさまはあきれ返ったしれ者だ! いいから、まず短刀をここへ持って来い!」
平五はだまりこくった。
「きさまが持っていることに間違いはない」と玄蕃はさらに畳みかけた、「おれは研ぎの結果がいち早く知りたくて平河町へ行ったのだ。すると『新庄へ返した』と言うものだから主殿を呼び出した。
主殿はすべてを話し、いま持ち帰っているのはきさまだろうと言った。それに違いなかろう!」
平五は込み上げる怒りのために、胸が熱くなった。
――なんと情けない父親なのだろう。ほかの人間ならともかく、新庄の叔父がペラペラとしゃべるなんてことは絶対にありえない、それだけは叔父として絶対にしてはならない約束のはずだ。
いったいなんと情けない腰抜けだろう、まるで女の腐ったようなやつじゃないか、と平五は悔しさのあまり歯ぎしりをした。
「きさま、聞いておるのか!」と玄蕃(げんば)はどなりつけていた。「持って来いと言ったら持って来い、さもないと、それなりの覚悟をしてもらうぞ」
平五は父をまっすぐ見た。「覚悟とはなんですか」
「口答えをする気か!」
「覚悟があるとは、いったいどういうことですか」
「おれは、あの短刀をここへ持って来いと言っているんだ!」
「嫌です」と平五は父の言葉を遮るように言った。「叔父さんが話したというのならご存知でしょう、あれは私が自分で見つけて、自分のお金で買ったものです。たとえ父上の命令であっても、私は絶対に手放すわけにはいきません。お断りします」
「なんだと、こいつ……! 絶対に渡さないと言ったな!」
「聞き返すまででもありません、言いましたよ」と平五はまるで挑みかかるような勢いで言った。「さあ、教えていただきましょう。覚悟があるとは、どういうことなんですか」
「勘当だ!」と玄蕃が怒鳴りつけた。「きさまはたったいまから勘当だ!」
「理由をはっきりとおっしゃってください!」
そこへ、母親が「平五さん!」と叫びながら部屋に駆け込んできた。
玄蕃はそれに怒りをますます煽られたように、「口出しをするな!」と声の限り喚き散らした。
「理由が聞きたければ教えてやる!
きさまは小出の家名を傷つけ、一族の面目に泥を塗るようなとんでもないやつだ。

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