初級翻訳・山彦乙女 第24話

山彦乙女

 そう訊いてやりたかった。
 半之助の役替えには、村田平四郎の勧誘があった。
 それは、青山主馬と築地の「丸茂」へ行ったことから始まっている。
 村田も青山も、幕府の偉い人たち(はっきりとはわからないが、その中心人物は若年寄の久世大和守という人らしい)から命じられて、柳沢一派の動き、つまり吉保を取り巻く政治の不正取引や、彼らの汚職の事実、将軍綱吉との深い関係などを調べているということだ。
 だが半之助は、そんなことにはまったく興味がなかった。
 彼は政治に関心が持てない。政治というものには必ず権力がつきもので、権力というやつはいつでも不正や圧制をともなうからだ。
 それは、その立場に就く人間がどんな人であっても関係なく、決して例外はない。
 大昔の中国の歴史書には、素晴らしい王さまがいて、国民はみんなお腹いっぱいご飯を食べ、歌い踊って平和な世の中に酔いしれた、などと書かれている。
 しかし、実際にはその「国民」自身が書いたものではないのだから、そのまま丸ごとは信じられない。
 半之助はこう考える。
 政治と一般の人々とのつながりは、征服する側と征服される側の関係からどうしても離れることができない。
 政治は必ず庶民を使使し、庶民から奪い、庶民に命令を聞くことを強要する。
 どんな時代であっても、どんな国であっても、どんな人物であっても、政治は常にそういうものなのだ。
 これは人間の生まれ持った違いからくる、どうしようもないものだ。
 と、半之助は考える。
 ご飯は軽く一杯だけで十分で、妻一人を持て余すような人間もいれば、朝昼晩とご飯を五杯も食べ、妻のほかに愛人もいて、さらに別の女性とも遊ばなければ体に毒だ、という人間もいる。
 とても身近なこの両者を比較するだけでも、そこから生まれる格差や対立は、悲しいほどに救いようがない。
 生活の力が強い者は、弱い者に勝つ。
 どうあっても勝つのである。
 消化器官と子どもを作る機能。
 そして健康と才能。
 この四つの条件がみんな同じように平等にならなければ、強い者と弱い者、支配する者と支配される者という対立は、永遠に続くだろう。
 みんな仲良くしようという博愛の考え方や、正しい道を行こうとする精神、人間としての理性などでは、とうてい克服することはできない。
――では、生き残る者が勝ち、弱い者は滅びる「弱肉強食」ということなのか。
 半之助はその通りだと思う。
 政治を行う者は代わっていく。新しい者たちは前の者たちのダメな政治を責め立てて、自分たちの優れた政治を行うと宣言する。
 だが、そんなことは今まで実行された例がないし、これからも実行されることはないだろう。
 なぜなら、彼らは強い者であり、支配する者だからだ。
 それがもともと高い身分の生まれであろうと、武士の家柄であろうと、あるいは庶民から這い上がった者であろうと、彼らが一度政治の権力を握ってしまえば、もはや昔の彼ら自身ではなくなってしまう。
 どんなに高潔で、私欲がなく公平な、新しい政治の理想を持っていたとしても、現実には「強い者」「支配する者」という立場から抜け出ることは絶対にできないのである。
 青山主馬との意見の違いは、まさにこういうところにあった。
 主馬はいま、ある古い裁判の記録を調べている。
 それは上の命令によるものだが、柳沢に反対する動きの一つであるらしい。
 彼は「丸茂」で、柳沢吉里や閣僚たちの政治的な裏工作を見せたあと、その計画を打ち明けて半之助にも協力を求めたのだ。
――いやだね。
 半之助はきっぱりと首を横に振り、いま述べたような意見を語って、自分の立場を彼らからハっきりと言い放って孤立させたのであった。
 薬草園へ転勤になったのは、村田平四郎の推薦によるものらしい。
 前にも書いたように、平四郎は寺社奉行に席があって、薬草の研究をすることを特別に許されているのだ。御薬園とはいつも連絡を取り合っていたので、
 ――安倍のやつは人間嫌いだから、植物の相手でもしているほうが気楽だろう。
そんなふうに言われていたのだ。
そして今回の役替えが決まったのである。
谷町から木挽町へ行くと、山村座はちょうどお休み中だった。
毎年七月いっぱいは、たいていのお芝居小屋が休みになる。
言うまでもないことだが、当時は明かりにロウソクを使っていたため、客席の出入り口や戸や窓をしっかり閉め切らなければならなかったからだ。
それに、実際にとても暑いのでお客さんの足も遠のいてしまい、よほどの特別な事情がない限りは休演するのが決まりとなっていた。
普段ならはためいているため旗もなく、絵看板もなく、役者の名前を書き並べた庵看板もなく、ひっそりと木戸を下ろした劇場や、その前の人通りもまばらな広い道の上に、もうすぐお昼という晩夏の日差しがギラギラと照りつけていて、それは何とも言いようのない物寂しい光景だった。
「まあ、お珍しい! すでにお久しぶりですね」
茶屋の店の脇で、お膳に使う器を出してツヤのある布巾をかけていた女中たちの中から「おいそ」が声をかけ、同時に「なお」が、頭にかぶっていた手拭いやたすきを外しながら出迎えてくれた。
「ヒマなものですから、いろんなものの風入れをしてるんですの。今日は、お連れさまは?」
「あとから来るが、いいのか」
「なにがですか」
「休んでるんじゃないのかというのさ」
「どういたしまして! 休んでたって、ひとつ木の若さまなら!」
なおには珍しく、いつもの愛想を言いながら、先に立って二階へ上がっていった。
汗を拭き、浴衣に着替えている間も、なおはウキウキした様子で、とりとめのない話を続けいた。
かつての寂しげな顔立ちが、驚くほど明るく生き生きとして見え、大きな身ぶりをしながらしきりに笑うのだ。
――恋人でもできたのかしら、それとも縁談でもまとまったのかな。
そう想像した半之助は、いつだったか彼女が沈んだ様子で、
 ――聞いていただきたいことがあるのですが……と言ったことを思い出した。
――でも、それは次の機会にしましょう。
そんなふうに、自分ですぐに話を引っ込めたけれど、そのときすでに、恋人ができるか縁談が決まるかして、相談を持ちかけようとしていたのではないだろうか。
半之助がそう思って、
「バカに嬉しそうだな」と、彼にしては珍しく軽口を叩いた。「いつか話したいことがあると言っていたようだが、何かいいことがあったみたいだな」
「あら、覚えていてくださったんですか」
なおは半之助の脱いだ着物を片付けながら、色っぽく横目で見た。
「やっぱり情けがあるわね、若さまは」
「若さまはやせろよ。どうしたんだいったい、お嫁にでも行くのか」
「ええ、ええ、そうなんです!」
妙に力を込めて、今度はうつむきながら、袴の紐を折りたたみつつ言った。
「いろいろとあったんですけれど、それで一度ご相談したかったんですけれど、でも、どうやらお話が決まりましたから」
「じゃあ、お祝いだな」
「もうそれも、ここ四、五日のうちなんですの」
「それはおめでとう」
半之助はそう言って、ふと笑いながら、「お婿さんはどんな人だ?」
「申しちゃいましょうか」なおはこちらを見た。

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