昌雲寺で法事があったとき、千之助と冲左衛門が知り合ったことは千之助の口から聞いていたが、彼がどうして谷町に出入りするようになり、いつの間にそんなに親しくなったのか、半之助にはまったく想像もつかなかった。もちろん、今の半之助にとっては自分にはもう関係のないことだった。
ただ関係がないだけでなく、佐枝の様子を見ていると、その親しげな様子には何か特別なわけがありそうだった。
――もしかすると。
婚約、ということが考えられた。
なんでもない間柄にしては、あの声の出し方や、なまめかしい身のこなしは、(少しは大げさにわざと見せつけているにしても)ちょっとやりすぎだった。
もしそうだとしたら、半之助にとっては儲けものと言えた。
最大の難関は縁談にあったのだし、向こうの条件がそんなふうに変わっているなら、一番面倒でいやな話し合いも避けられるだろう。
「そうなってくれるといいんだがな」半之助は思わずまたそう呟いた。
冲左衛門はずかずかと部屋に入ってくると、座る時に荒々しく袴の裾をさばいた。
色の黒い、頬骨がぐっと突き出た、とてもいかつい顔が、不機嫌でこわばり、ますます険しく見えた。
「お前の役が変わったそうだな」
半之助の挨拶を無視するようにして、彼はまるで罪人を尋問するような目で睨みつけた。
「お薬園の担当へ出ることになりました」
「わしは大目付のほうへ推薦したはずだが、そのことは言っておいたはずだ、忘れたのか」
「そのようにお聞きした気もいたしますが……」
「ような気もする、だと」
「はい、たしか昌雲寺でしたでしょうか、大目付の記録所支配という方から、そのうち空きができたら、というお話が……」
「それがわしの推薦で、その席はもう決まったも同然だったのだ。それを知りながら、わしに断りもなく他の役へ移るというのはどういうわけだ、わしの推薦が気に入らないというのか」
「むろん、そんなことはございません」
めいわくをかけないように、穏やかに、と胸の中で自分に言い聞かせながら、半之助はできるだけ優しく答えた。
「御推薦はありがたいと思っております。ですが、それが正式に決定したこととは存じませんでしたし、お薬園のほうへぜひにとお話をいただいたものですから」
「そのときに一言、わしに断る必要はなかったのか」
「まことに、申し訳ありません」
半之助は深く頭を下げた。
冲左衛門は、いかにも不愉快そうに言った。
「将来のことを思えばこそ、大目付のほうに席を取らせようとしたのだ。それを薬草園などという、バカげた、隠居したおじいさんの仕事にもならないようなつまらない役について、いったい今からどうするつもりなんだ」
「私にはこれといって特別な才能もございませんし、出世したいという野心もありません。薬草をいじるくらいが、自分の身の丈にちょうど合っているのではないかと思います」
「それだけですか」
いきなりそんな声を張り上げながら、千之助が庭のほうから上がってきた。
半之助は気づかなかったが、いつの間にか戻ってきていて、それまでのやりとりをずっと聞いていたらしい。
「理由はそれだけですか」
そう重ねて言いながら、千之助は半之助のすぐ隣にどっかりと腰を下ろした。
「そんなわけないでしょう」
「何がだ……」
「お役替えの理由ですよ」
半之助はすっかり困惑した。
冲左衛門が相手だけなら、ひたすら謝り倒して話を終わらせることもできる。
それだけの自信はあったが、この千之助という人物が割り込んでは話が難しくなる。
――気をつけないと、とんでもなく嫌な気分にさせられるぞ。
そう心の中で警戒しながらも、できるだけ落ち着いたトーンで言った。
「なんだか、僕にはさっぱり意味がわからないが、役替えの理由ってどういうことだね」
「それはこっちが訊いているんですよ。もちろん、だいたいの事情はすでに調べてありますがね」
「全然見当がつかないな、君の言っていることは」
「不思議ですねえ」千之助は冷たく笑った。「村田くんや、青山くんはあなたの親友でしょうしょっちゅう行き来しているし、お互いに深い裏のつながりがあるじゃありませんか。それなのに、何も知らないなんて言ったって、信じられるわけがありませんよ」
「いったいこれはどういうことですか」
半之助は冲左衛門の顔を見た。
「私には彼の言っていることがまったく理解できません。お呼びになったご用事がこれで終わりでしたら、失礼させていただきます」
「いいだろう。だが、一言だけ言っておく」
冲左衛門は、相手を言い伏せるような口ぶりで、しかし妙にゆっくりと言った。
「以前から話のあった、佐枝との縁談は、わしも佐枝も願い下げだから、ここでハッキリと断っておく」
「――はあ」
「それから、怪しげな人間との付き合いは慎むことだな。そうしないと、お前の身が破滅するぞ」
それを聞いた半之助の中で、ふつふつと怒りがこみ上げてきた。
怪しげな人間とは誰のことなのか、何がいかがわしいというのか。
そう言い返してやりたかった。
しかし、目の前にいる千之助の、意地悪で、突き刺すような表情を見て、「穏便にな」と言っていた主馬の言葉を思い出し、「それではお暇いたします」と頭を下げて立ち上がった。
二
「今の、谷町からの忠告をバカにしないほうがいいですよ」
玄関まで見送りに来た千之助が、意味ありげにそう言った。
振り返った半之助は、彼の目が敵意というよりも、勝者のような、どこか誇らしげに見下すような光をたたえているのに気づき、なぜか急に気が楽になって、自然と笑みがこぼれた。
「いつかの意見と話が矛盾しているじゃないか」
半之助は腰の刀を確かめながらそう言い放った。「私が幸せでいることは、許されない。いつか決闘することになるかもしれない。そう言ったことがあるはずだ」
「――――」
「谷町の忠告も、その意味もよくわからないが、もし私が破滅するとなったら、そっちにとっては本望なんじゃないのか」
「記憶力は確かなんですね」千之助は唇をゆがめた。「しかし、記憶はよくても理解のほうがダメですね。あなたを幸せなままにしておけないのは、この私なんです。あなたを参らせるなら、私のこの手で参らせたいんです。ほかのやつの手でやっつけられても、私は少しもうれしくないんですよ」
「それならもう満足したと思うがね」
「何がですか」
「どうやら、幸せの位置が逆になったようだからさ」
こう言って、半之助はまっすぐ相手を見た。
千之助の表情に屈辱の色が浮かび、彼は式台へと下りてきた。
「あなたは僕をバカにしているんですか」
「お祝いを述べているんだ」
半之助は微笑んだ。
「その席を大切にしたまえ」そして門の方へ出た。
歩き出したものの、気分は重く、ムカついて何か吐き出したいような感じが、胸につかえていた。
こっちにもその気になれば、冲左衛門や千之助の言うことなど、むしろ逆に言い返してやりたいものだった。
――あなた方がそんなふうに自信満々でいられるのは、後ろに柳沢の権力があり、その勢いが揺るがないと思っているからでしょう。それが不動のものではなくて、すでに揺らぎ始めていると知ったら、それでもやっぱり自信満々でいられますか。
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