初級翻訳・梟谷物語 第2話

山本 周五郎

しかし、そっと半九郎を見上げたひとみは、もうさっきほどおびえた色ではなかった。
「いってごらん、こわいことはないよ」
「はい、わたくしは酒田の御領分の者でございます。父は海産商人で名は市郎兵衛、わたくしはお糸と申します」
「――うん」
「父といっしょに松島見物にまいりました帰り、月山へお参りに寄りますと、ここの人たちにつかまりまして密偵だろうというお疑いをうけ、父はどこかへ連れ去られましたし、わたくしはしばられてあの倉の中へおしこめられてしまったのです。――もう命はないものと思っていましたら、昨日の昼頃でございましたか、……官軍が攻めてくるといって、ここの人たちは逃げていき、わたくしは……」
「うそをつけ!」
いきなりわめきながら、石岡吉次郎が入ってきた。
……娘はびっくりしてふりあおいだ。
「密偵と疑われてしばられた?」
吉次郎はにくにくしげに近寄っていった。
「それはこっちでいうことだ、そんな涙まじりのうそにかかる我々と思うか」
「あのう……でもほんとうに」
「だまれ、お前は土生一族の者だろう、そして我々の様子をさぐるために、わざとしばられてここに残っていたのだろう。――隊長」
吉次郎は大剣の柄へ手をかけた。
「よくある手です。斬ってしまいましょう」
「――待て」半九郎は静かにおさえた。
「貴公がそう思うのは尤もだ、しかしよくしらべないで斬るという法はない」
「でも万一これが密偵だとしたら」
「まあ待て、我々は一人や二人の密偵を恐れる必要はない、それにたかが少女のことだ。この少女のことはおれにまかせてくれ」
半九郎はやさしく、
「――お糸さん」と少女の方へいった。
「心配しなくともいいんだよ、私はおまえを信じている、父さんのこともしらべてあげようし、また酒田へも帰れるようにしてあげる、安心しておいで」
「はい、……ありがとう存じます」
少女は涙のあふれた眼で半九郎を見上げながらほほえんだ。
――白い美しい歯がちらと唇の間からのぞくのを、石岡吉次郎はさもいまいましそうににらみつけていた。

三

その夜はなにごともなく明けた。
朝の全員点呼がすみ、食事が終るとすぐ、半九郎は羽黒山の東をぬける山道へ斥候をだした。
それから少女のいる小屋をたずねた。
少女は隊士のズボンを縫っていた。
「お早う、よく眠れたかね」
「お早うございます。おかげさまで……」
「なにをしているんだ」
「隊士のお方のズボンが破れていましたので、いま針と糸をみつけて来ておつくろいしているところですの」
「それはありがとう」
「でも……下手ですから」
お糸ははずかしそうに頬をそめた。
――その様子を見て半九郎は眼がしらのあつくなるのを感じた。
半九郎は水戸の藩士である。
水戸には母と妹がいる。妹は十五だ、ちょうどこのお糸も同じくらいであろう。
丸顔で、白い頬をすぐ赤くそめるところなどは、そのまま妹を思わせるようだった。
妹は母のもとでやすらかに暮している。それなのにこの少女は、遠く故郷をはなれた山奥で、しかも戦争のまっただ中でつらいめに会っている、――故郷を思い、親たちを思ったらどんなに悲しいか。
「早く酒田へ帰りたいだろうね」
「――はい」
「気を強くもっているんだ、いまにきっと帰らせてあげるから」
お糸は半九郎の眼を見上げて、うれしそうにうなずいたが、
「でも、みなさまはここで戦をなさるのでしょう? そんなことをしていただくおひまがございますでしょうか」
「いやここにいるのは少しの間だ」
半九郎は安心させるようにいった。
「あとから後援隊が着きさえすれば、いっしょに庄内の方へ進軍する、そうしたら酒田へ送るたよりはいくらでもあるよ」
「後援隊はたくさんくるんですの?」
「たくさんくるよ、今いるだけではこの梟谷をつきやぶるのはむつかしいからね」
「たくさんってどのくらい……」
お糸がそういいかけた時。
たん、たんたん、たーん!
砦のうしろの谷間の方から、ふいにすさまじい銃声が起った。
――土生一族が攻めてきた!
と思った半九郎は、そのまま広場の方へとびだして行った。
「――銃をとれッ」
「――部署につけっ」
号令の声があたりにひびき、霧のなかを隊士たちが右へ行ったり左へ行ったりしていた。
たんたん! たんたんたん
銃声はさっき斥候を出してやった山道の方から聞えてくる。
半九郎は矢倉の上へのぼって見やった、しかしうずまく霧のためになにものも見えない。
「石岡、一小隊だしてやれ」
「はっ」
「敵がいたら深入りせずにもどるんだ、決して深入りしてはいかんぞ」
一小隊二十名の兵が、霧のなかをつきすすんで行った。
銃声はやんだ。
霧に包まれた梟谷は、急にひっそりとしずまりかえって、遠く谷川の水音だけがさわやかに聞えている。
――銃をとって部署についている兵たちは、この濃い霧のなかの、どこからおそいかかるかも知れぬ敵を思って、ねらいうちの姿勢をしたままかたずをのんでいた。
たすけに行った小隊がもどってきた。
きずついた四名の斥候をたすけながら。
……十名だしてやった斥候が、四名になっているのだ。
そのうえみんな重傷を負っている。
「――どうした」
半九郎が走りよってさけぶと、
「隊長、残念です」
と一人が苦しそうに答えた。
「あの道には敵がいます。
両がわの山にいるんです、人数はわかりませんが、相当にいる様子です、――我々が切通しへかかるのを待って、退く道をふさぎ四方から急に射ちかけました、あの道はだめです」
いいおわると共にその兵は気絶してしまった。
「よし、早く手当をしてやれ」
半九郎はそういって広場へもどった。
敵は裏山にいる、そしてこの砦を見下して攻める時期をねらっているのだ、――半九郎はすぐにまたふた組の斥候を出した。
ひと組は草苅峠へ。
ひと組は月山道へ。

四

ふた組はそれぞれの方向へ出て行った。
しかし長く待つひまもなく、その両方から一時に銃声が起った。
「あ! またやられる」
兵たちは一せいに色をかえた。
「――隊長」石岡が走って来た。
「救援隊を出しましょう!」
「いかん」
「彼らはまたやられます、私を行かせて下さい、隊長!」
「いかん、おちつけ!」
半九郎はきっぱりといった。
「敵はそれを待っているんだ、救いに行けば行っただけ全滅だ。
――これで、ようやくわかったぞ、土生一族のはかりごとはこれだったのか」
「これがはかりごとですって?」
「彼らはわざとこの砦をからにした、そして我々をこの谷間へ入れて袋攻にしようとはかったのだ」
半九郎はうめくようにいった。
「我々はいま袋の鼠だ」
「――隊長」
石岡の顔がさっとあおざめた。
銃声は間もなくやんだ。
しかし一人も帰って来なかった、十名ずつ、出してやったふた組の斥候は、ふた組とも全滅してしまったのである。
「石岡、……隊を集めてくれ」
半九郎はそういって広場へ出た。
わずかのあいだに二十余人の同志を失い、また自分たちがまったく敵にかこまれていることを知って、隊士たちの不安はかくしきれぬものがあった、ここで士気をうしなってはならない、――半九郎は全員が集るのを待って、
「みんな、よく聞くんだ」
と声をはげましていった。

コメント

タイトルとURLをコピーしました