ちゃんと聞いていなかったのね?」
「聞いていましたよ」
「じゃあ、あなたもう甘利山に登ったの?」
半之助は首を横に振りました。
「あらいやだ! じゃあ、ここへ来てからどこにも行かないで、ずっとじっとこうしていたのね? なにかしら、ものすごく大変な怠け者なんだから!」
「それは私のせいじゃありませんよ」彼は苦笑いしながら言いました。「ここへ来る途中、いろんな人たちからさんざん脅かされましたからね。『椹ヶ池には近づいてはいけない』『かんば沢に入ったら生きては帰れない』『あっちの森には亡霊が出る』『甲斐の国中の狸が集まる場所がある』って具合ですからね。これじゃあ、うっかりあちこち歩き回るわけにもいかないでしょう」
「そうね、それはそうだわ」
花世は納得したようにうなずき、食べ終えた箸を置いて、何か深いことでも考えているような目でじっと見つめました。
そして、急に何か素晴らしい思いつきでもしたように、「そうだわ!」と両手を打ち合わせ、好奇心に満ちあふれた表情で半之助の顔を見上げました。
「いつもいつも忘れちゃうんだけど、あなたのお名前も、どこから来たのかも、どうしてこんなところにいるのかも、乙女はまだ何も聞いていないわよね?」
「それを聞く暇が、ありましたかね?」彼はからかうような目で花世を見つめました。「話すのはいつも貴女ばかりで、私には何も言わせてくれなかったでしょう」
「あらいやだ、乙女はそんなにおしゃべりじゃありませんわ! ……まあ、少しはおしゃべりかもしれないけれど、だって信之助さまはいつもすごく寂しそうにしていらっしゃるんだもの! ねえ、本当に見ているのが辛いくらいに寂しそうなんだもの、いつも!」
彼女はまたしても、まったく違う名前で彼を呼びました。
そのときそのときで、思いつくまま自分の好きな名前で呼ぶのが彼女の癖なのです。
すでに十回くらいは違う名前をつけられていましたが、半之助にとってそれは不思議と嫌な気はせず、むしろ心地よく感じられるほどでした。「あたし、そう思ったんだから」
花世の目はふっとうっとりとして、顔全体が、自分の作り出した楽しいお話の夢に包まれていきました。
そして花世は、半之助の悲しい身の上話を語り始めたのです。
彼はとってもえらい武士の若様で、もしかすると大名の若殿さまであるかもしれない。
いや、まちがいなく若殿さまだわ。
ところが、悪い家来がいて家の中が大もめにもめ、彼はあやうく毒殺されそうになったの。
それだけじゃなくて、ものすごくきれいな町の娘さんに夢中で恋をしているんだけれど、その娘さんは自分の身分が低いことを気にして、彼の熱い想いを断ってしまうのよ。
「その人は心の中で泣きながら、本当にどうしようもないくらい泣きながら、『いいえ、わたくしのことは諦めてくださいまし、とてもあなたのお気持ちは受け取れません、とても……』って、顔では笑いながら行ってしまうの」
花世は目をうるませ、両手をきゅっと握りしめて、こらえきれないといったふうに声をふるわせました。
彼は失恋したショックと、毒殺される危険から逃れるために、ある夜こっそり、ひとりでお屋敷を飛び出した。
そして絶望して、悲しみにくれて、世の中も人間もいやになって、こんな山の中へやってきた……。
――そんなふうに、思いつくままの空想に自分ですっかり酔いしれながら、彼女はお話を続けたのです。
「ねえ、そうでしょ? わたくしの言うこと、そんなに間違ってないでしょ?」
「まあ、そんなところでしょうかね」
半之助はちょっと気圧されながらも、うまく言葉をにごしました。
「大名の若殿さまでもなければ、大身の武士の子でもないけれど、世間から逃れてここへやってきたっていうところは、貴女の推理のとおりですね」
「それだけ分かれば十分よ、もう何も言わなくていいから」
花世は深い大きなため息をつき、すべてを溶かしてしまうような熱い眼差しで、じっと半之助を見つめました。
それは、両手で力いっぱい抱きしめる代わりに、目でぎゅっと抱きしめているような、そんな不思議なまなざしでした。
「いつまでもここにいらっしゃるといいわ」彼女は言いました。「春も夏も秋も、冬は……そうね、冬はちょっと困るけれど、ここは一年中美しいし、珍しいことや楽しいことがたくさんあるの。そして、いつまでもいつまでも、乙女がそばについてお世話をしてあげるわ」
「それができたらありがたいんだけれどね」
半之助はそう言いながら立ち上がり、湯沸かしからふたりの椀にお湯を注ぎました。
「だけど、この土地の人たちは、よそから来た者をそう簡単に住まわせてはくれないんじゃないかな」
「ううん、乙女がついていれば大丈夫よ! あたしがそばについていさえすれば、誰だって絶対に、あなたに指一本触れさせたりしないんだから。絶対に、よ!」
ものすごく意気込んで、花世はきっぱりと言い切りました。
「でもそのためには、あなたが乙女の言うことを聞いて、『これをしてはいけない』って言われたことは絶対にやらないって約束してくれなきゃダメよ」
「――たとえば?」
「ひと口には言えないわ。ここにもいろいろと、そうね……いろんな、それに触れたり、見たり聞いたりしちゃいけない場所や出来事があるの。たとえば、今日は四月十一日でしょ」
「――そうだと思いますね」
「これもそのひとつなのよ。今日は誰も山道に出たり、その辺りをうろつき回ったりしちゃいけないの。どんなことがあっても、絶対にダメなのよ」
そう言って、花世は大人のような顔つきで、注意をするようなしぐさをしました。
「あなたも自分のいる場所にいて、どんな物音が聞こえてきても、何かが見えるような気がしても、そこから動かないでじっとしていらっしゃるのよ」
「ははあ」
半之助はわざとらしく眉をしかめました。
「――それはつまり、幽霊が出るってわけですかね」
「そんなふうに茶化して聞いちゃダメよ! 乙女がこう言ったら、『分かりました』って黙ってそのとおりにするの。今夜だけじゃなくて、ほかにもそういうことがいろいろあるんだから。そのときそのときに、ここはこう、あれはこうって教えてあげるから、その通りにすればいいのよ。分かったでしょ?」
まるで母親が子供に言い聞かせるような口ぶりでした。
半之助は苦笑いしながら、「よく分かりました」というふうにうなずきました。
「それでいいのよ」
彼女もうれしそうにしたり顔でうなずき返しましたが、すぐにまた、次から次へとわいてくる楽しい空想の世界へと心を奪われていった様子でした。
「うれしいわね、わたくしがいっつもそばにいて、あなたのお世話をしてあげるの。あなたが落ち込んでいるときはなぐりさて、悲しんでいるときはいっしょに泣いてあげる。もし病気になったら、五日でも十日でも、ひと晩も眠らずに看病してあげるわ。そして……あらっ」
突然、彼女はハッと振り返りました。
「あら、あたし忘れてたわ! あなたには好きな人がいらしたんだっけ、かわいくてきれいな町の娘さんが……。ねえ、その方どうするの?」
三
「町の娘って……」
半之助はそう言い返しつつ、ふとなつのことを思い出しました。
山村座の茶屋の女中だった、あの不憫ななつのことを……。
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