初級翻訳・末っ子 第11話

山本 周五郎

わが意を得たという口ぶりで、及ばずながら一切の世話をしよう、とにかく上がって、祝いに一杯やってくれとすすめた。
平五はあとで来ると断り、細江の住居を訊いた。
清兵衛はまた膝を叩き、そうくるだろうと思ったと言って、向こう路次の木戸から入って左の五軒めだと教えた。
「しかし今夜はよしたらどうです、こんな時刻に行ってする話じゃないでしょう」
「いや、ほかにも用があるんだ」と平五は腰を上げながら言った。「ちょっと行ってすぐ帰ってくる、帰ってから話すよ」

細江の住居はすぐにわかった。
路次は狭くて暗かった。
長屋のそこかしこで煮炊きをする匂いや、泥溝や、ごみ溜めの刺激的な匂いが漂ってきて、平五は空腹を感じると同時に、胸がむかむかした。
細江ではもう雨戸を閉めており、平五の声を聞いてもすぐには戸を開けなかった。
「小出平五です」と彼は繰り返した。「先日お売りになった短刀のことで話があるのです、清鑑堂へお売りになった短刀です」
娘のみのは母に聞いていたらしく、やがて滑りの悪い雨戸を開けて「どうぞ」と言った。
戸を開けると格子はなく、一尺ほどの土間からすぐ二帖の上り框になっていた。娘はあんどんの脇にきちっと座り、作法どおりにていねいに挨拶をしました。
「夜分にお邪魔します」と、平五は立ったまま言いました。「じつは、先日のあの短刀が、五郎正宗の本物だとわかったんです」
みのは、信じられないといった様子で顔を上げました。
平五はこれまでの大体の事情を話しました。
奥の部屋で寝ているかもしれない母親にも聞こえるように、かなり大きな声で話すと、ふすまの向こうから呼ぶ声がし、みのは返事をしてそちらへ行きました。
「部屋にあがってもらいなさい」と言われたらしく、みのは困ったような顔で平五を見ました。
畳もボロボロに破れているような二畳の部屋へ、あがってくださいとはとても言えないのだろうと思い、平五は「失礼します」と言って刀を腰から外し、ふすまのそばへ行って座りました。
「細江しのぶでございます」と、ふすまの向こうから声がしました。「病気療養中につき失礼しますが、このままでお許しください」
平五もこちらから挨拶をしました。
「短刀の件はここで聞きました」と、しのぶはきっぱりとした口調で言いました。「正宗だと伝わっていたのが事実だとわかって、うれしく思います。けれども、一度手放した以上、こちらにはもう一切関係ありません。どうぞご心配なくお引き取りください」
きっぱりとした口調だけでなく、驚くほど冷徹で割り切った態度が感じられました。
――こいつは強敵だな。
平五はそう心の中で思いながら、みのを嫁にほしいと切り出しました。
短刀のことがきっかけで勘当されたすべての事情や、自分が武士の大小を捨てて道具屋になり、一流の商人になるつもりであること、みのはもちろん、その母親も一緒に引き取って大切に世話をするつもりであることなど、興奮していて気持ちが高ぶっていたため、話が前後したり、言葉がつかえたりどもったりしながらも、言いたいことはすべて残さず言いました。
しのぶは黙って聞いていましたが、平五が話し終えるとすぐに「お断りします」と答えました。
「お相手の旧家のお名前は申し上げませんが、我が細江家は七百五十石取りの由緒正しい家柄です。たとえ浪人をして、このように貧しい暮らしをしていても、道具屋などになるような人のところへ娘をやるわけにはまいりません。お断りいたします」
「しかし」と、平五は思わず言い返してしまいました。「家柄の点なら、小出家だって三河の時代からの旗本です」
「そちらのお家はそうなのでしょう。しかし、それだけの家に生まれながらあなたはご勘当になった。つまり、あなたはもう三河以来の由緒ある家柄などを口にすることはできないはずではありませんか」
細江家はどうなんだ、と平五は喉まで出かかりました。
家が没落して男の子がいないなら、細江家を再興するチャンスなんてまずないだろう。
それなら家柄もプライドもあったもんか、同じじゃないか、そう言ってやろうとしたのです。そのとき、すぐ横の方でかすかにすすり泣く声が聞こえ、見ると、みのがたもとで顔を覆っていました。
「失礼いたしました」と、平五はようやく自分の感情を抑えて言いました。「私の願いの伝え方が悪かったのでしょう。この話はまた日を改めて申し上げることにします」
「いいえ、お断りいたします」と、しのぶが言いました。「そのお話ならもう聞く必要はございません。ここへいらっしゃることもお断りいたします」
「失礼しました」と、平五はみのに言いました。
刀を持って外へ出、細い路地を抜けて大通りに出ると、平五は堀端へ行って足を止めました。
「あれが……」と、彼は荒い息をしながらつぶやきました。「あれがおやじの言う、武士のプライドってやつなんだな。ひどいもんだ、まるで歯が立たなかったじゃないか。今年はやっぱり厄年だな」
彼は急に振り返りました。
後ろに人の気配を感じたからです。振り返ると、みのがこちらへやってくるところでした。
平五の後を追ってすぐに走ってきたのでしょう。そばまで来ると立ち止まり、またたもとで顔を覆って声を殺して泣きじゃくりました。
追いかけては来たものの、それ以上どうすることもできない、言葉も出ないという様子でした。
平五には、それで十分でした。
彼はすばやく道の左右に目をやりました(暗い堀端の道には誰もいませんでした)。それからみにのそばへ寄り、彼女の肩に手を置きました。
「僕は忍耐力にかけては自信があります」と、平五は言いました。「僕の父は君のお母さんよりもっと頑固で話の通じない人だったけれど、とにかく二十四歳の今日まで僕はじっと耐えてきたんだからね。わかるかい?」
みのは泣きじゃくりながらうなずきました。
「道具屋になってもいいよね?」と平五が言うと、
みのは再びうなずきました。
彼はその娘を強く抱きしめたい衝動にかられました。
自分の手の下で、娘の肩はあまりにもか弱く、小さく、そして柔らかく、彼はその肩をそっと優しく押さえました。
「清鑑堂の親父さんが力になってくれるはずだ。もうお家へお帰りなさい」と平五は言いました。「どうかお母さんを大切にしてあげてくれ」

十一 彼に対する米良の評価

米良平左衛門は言った。「依田のところへ婿に行くよりも、平五はやっぱりあっちの結婚のほうがよかったみたいだな。細江の奥さんが亡くなるまでに三年、あしかけ四年がかりで結婚したわけだけれど、そのあいだに商売の足がかりもできて、自分のお店もしっかり構えることができたんだから、結果としてはむしろよかったと言えるだろうさ。よく我慢し通したもんだよ。つまり、本当に自分の進みたい道だったからだろうなあ。なにしろ饅頭を売るところからはじまった男だからな。そうそう、『平五』っていうお店の名前は、いまや同業者のあいだでもかなり有名になっているそうじゃないか。小出のお父さんはもともと筋金入りの道具好きだったけれど、『平五』の評判が高くなってくると、ピタリと骨董(こっとう)の趣味をやめてしまったんだ。おそらく、平五にからかわれたり、あっと言わされたりするような気がしてきたんだろうな。

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