今夜のところは、あたしがなんとかするわ」
「なんとかって、どうにかなるのか?」
「旦那さんになるかもしれない人のためだもの。あたしだって、いいところを見せたいじゃない。ちょっと待ってて」
ゆうれいはスウッと立ち上がりました。
「今、何か持ってきてあげるから。寝ちゃダメよ。起きて待っててね!」
そして玄関の方へ行ったかと思うと、障子の隙間から煙のように外へ出て行きました。
弥六はポカンとした顔で、何か口の中でつぶやいていましたが、やがてフッと眉毛(まゆげ)にツバをつけました。「これが夢じゃないなら、きっとキツネかタヌキに化かされているんだな。……でも、こんな京橋のど真ん中にキツネやタヌキがいるわけないし。……ってことは、やっぱり夢なのかな?」
弥六(やろく)がそんなふうに独り言を言っていると、家の表にある戸の外から、女の人の声が聞こえてきました。
「ねえ、あなた。悪いんだけど、戸を開けてちょうだい。持っているものがあるのよ」
弥六は返事をして、もう一度まゆげにたっぷりとツバをつけました(化かされないためのおまじないです)。それから、戸を開けるために立ち上がりました。
ゆうれいの姐さんは、料理を運ぶ「おかもち」を手にさげて、「ああ、重かった」なんて言いながら、部屋の中へ上がってきました。
弥六は彼女の後ろ側にまわって、しっぽが生えていないことをしっかり確かめてから、とりあえず元の場所に座りました。
「冷めちゃってるけど、しかたないわよね。急いで用意したから、今はこれでがまんして。明日の夜は、もっとごちそうを持ってきてあげるから」
ゆうれいの女の人は、おかもちのフタを開けて見せました。
中には、おいしそうなウナギのかば焼きのお皿と、お酒の入った徳利(とっくり)が三本。おちょこからお箸まで、全部そろっています。
「こいつは驚いた! 立派なウナギのかば焼きじゃないか。ずいぶん長いこと食べてないから、見ただけでおなかがグーッて鳴っちゃうよ。おっと、俺がお膳を出すよ」
「いいのよ、座ってて。そんなの奥さんの仕事なんだから、男の人が手を出すもんじゃないわ」
ゆうれいの女の人は、部屋のすみから小さなテーブルを出してくると、テキパキとおかもちの中身を並べました。そして弥六の目の前に座り、徳利を手に持ってにっこり笑いました。
「はい、どうぞ一杯。冷たくてごめんなさいね」
「どうもすまないね。それじゃあ、いただこうかな」
「遠慮なんていらないわよ。あたしを奥さんにしてくれるなら、これくらいのこと、毎晩だってしてあげるんだから」
「それが本当なら、こんなにうれしいことはないよ。まあ、おまえも一杯どうだい」
「あら、すみません。いただきます」
「俺の気持ちを受け取ってくれ」
「うれしいことを言ってくれるじゃない。それじゃあ、あたしを奥さんにしてくれるのね?」
「そのつもりで、お酒をすすめたんだよ」
「本気にしちゃうわよ。いいのね?」
彼女はまた、斜めから弥六のことをじーっと見つめました。その色っぽくて美しい視線のまま、おちょこを唇に運びました。
さすがは、深川の辰巳(たつみ)でならした芸者さんです。
立ち振る舞いや目もとの色っぽさ、ちょっとしたやり取りのうまさ。すべてがプロらしく洗練されていて、弥六の前の奥さんだったお兼(おかね)なんかとは、比べものにならないほど素敵でした。
弥六はすっかりのぼせてしまったようで、なんだか急にまじめな顔をして座りなおしました。
「もちろん、こっちは本気だよ。でも、『こちら』なんて呼ばれるのは、なんだか落ち着かないな。俺の名前は弥六っていうんだ。これからは、そう呼んでほしいな」
「あら、いやだ。奥さんが旦那さんの名前を呼び捨てにするなんて。夫婦になるなら、『あなた』って呼ぶわ。ねえ、そう呼んでもいい?」
「うふふふ、なんだか照れちゃうなあ」弥六はデレデレとだらしなく笑って言いました。「それじゃあ、俺はおまえのことをなんて呼べばいいんだい?」
「『おまえ』でもいいけれど、本当の名前はお染(おそめ)っていうの。あたし、『お染』って呼んでもらいたいわ」
「だけど、呼び捨てにするのはちょっと気が引けるなあ」
「あたしがお願いしてるんだからいいじゃない。ねえ、呼んでみて!」
「そうか。それじゃあ……お、お染……さん」
「『さん』なんて付けちゃダメ。もっとビシッと、『お染!』って呼ぶのよ。ねえ、呼んでみて」
「それじゃあ、その……お染!」
「ああ、うれしい! あなた、もう一度呼んで!」
二人はお互いにお酒を注ぎ合いながら、ウナギのかば焼きをつまみにお酒を飲み始めました。
ゆうれいでも酔っぱらうのでしょうか。お染の青白かった顔が、いつのまにかポッと赤くなりました。目はうるんできて、動きもますます色っぽくなっていきます。
「あなた、あたし酔っちゃったみたい。酔ってもいいわよね? 許してくれるわよね。だって、夫婦になるための大切なお酒なんですもの。そうでしょ?」
「ああ、もちろんだとも。うんと酔っぱらっておくれ。酔ったら俺が介抱してやるからさ」
「まあ、うれしい! それなら、もっとそばに行っちゃうわよ」
お染は立ち上がると、しなやかな体で弥六にもたれかかり、グイッと肩を押しつけながら、甘えた声を出しました。「ねえ、あなた。言っておくけれど、あたしはとってもやきもち焼きなのよ。もしも浮気なんかしたら、取り殺しちゃうからね。いい、あなた?」
「脅かすなよ。大丈夫だ、俺は浮気なんて絶対にしないからさ」
「脅かしじゃないわ。さっきも話した通り、あたしはあの冷たい男を取り殺して、あいつの一家も親戚もみんな取り殺しちゃったんだから。今は取り殺す相手がいなくて、宙に浮いたままさまよっているの。もしもあんたが浮気なんてしたら、その時はあたし……」
「わかった、もうわかったよ! 決して浮気なんてしないから、その『取り殺す』のだけは勘弁してくれ」
弥六(やろく)は話を変えたくなったようで、こう聞きました。
「ところで、おまえ。このウナギやお酒は、どこでどうやって手に入れたんだい?」
「三十間堀(さんじゅっけんぼり)にある『田川(たがわ)』っていうお店から持ってきたのよ」
「持ってきたって……そんなことして大丈夫なのかい?」
「大丈夫よ。田川くらい大きなお店なら、焼き残りのウナギや、冷めちゃったお酒の二、三本くらい、どうってことないわ。それより、みんな寝静まっていたから、これを持って外に出るのに苦労しちゃったわ」
「おまえ、幽霊なんだから隙間からスルスル出入りできるだろ?」
「あたしは針の穴だって通り抜けられるわよ。でも、おかもちや器(うつわ)はダメなの。だって、こういう物は幽霊じゃないんですもの」
「なるほど、そういう理屈(りくつ)か」
「あら、もうおしまいだわ」
幽霊のお染(おそめ)は、空になった徳利(とっくり)を置きました。
「あたし一人で飲んじゃったみたいね。もう少し取ってきましょうか?」
「俺はもういいよ。そんなにお酒に強くないんだ」
「じゃあ、続きは明日の晩にしましょう。……ねえ、あなた。うふふ、あたし酔っちゃったみたい。
初級翻訳・ゆうれい貸屋 第3話
ゆうれい貸屋
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