初級翻訳・ゆうれい貸屋 第2話

ゆうれい貸屋

よく飽きないもんだ」
 彼は首すじやスネのあたりをボリボリとかきました。
「なんだかゾクゾクするじゃないか。それに、ひどく不気味な晩だぜ。夜明けまではまだあるのかな」
 独り言をブツブツ言っていましたが、そのとき、かなり不思議なことが起こりました。

 寝転んでいる弥六の目の前、塗装がはげ落ちた壁のところが、ぼうっとほのかに明るくなってきたのです。
 ごくかすかに、青白く、ぼんやりと明るくなりました。
 そして、その薄暗い光の輪の中から、
「う……ら……め……し……や……なあ」
 という、なんとも悲しそうな声が聞こえてきたのです。

 弥六は寝転んだまま、そっちを見ていました。
 隣の部屋には、荷物を担いで売り歩く仕事をしている鉄造(てつぞう)という男が住んでいます。夜中になると奥さんがうなされるらしく、よく変なうなり声を上げるのです。
 奥さんはお勘(おかん)といって、もう三十八歳。若々しさがなくなって、ギスギスした感じの女性なのですが、弥六は「またあの奥さんがうなされているのかな」と思いました。

……すると今度は、前よりもはっきりと、やっぱりひどく悲しそうな声でこう言うのが聞こえました。
「うウら……めエしや……なア」
 そして、さらに不思議なことに、壁の明るさが少しずつ強くなっていき、やがてぼんやりと一人の女の姿が見えてきたのです。
「なんだ、こりゃ。妙なやつが出てきやがった。夢かな?」
「あアら、うらめしや……くやしいよぉ……なア」
 そう言いながら、女の姿はだんだんとはっきりしてきました。
 パジャマのような服を着て、細い帯を締め、髪の毛はバラバラに乱れています。両手をだらんと前に垂らし、前のめりになった姿勢で、ものすごい目つきをして、じいっとこちらを見ています。

「変な声を出すなよ。ゆうれいみたいな格好して、おまえ一体、誰なんだ?」
「見てわからないの?」
 相手は少しムッとしたようでした。
「『みたいな格好』なんて失礼ね。格好をつけてるんじゃないわよ。本物のゆうれいよ」
「へえ、本物かい。すると、誰のゆうれいだ。お兼か?」
「とぼけないでよ」
 女はますます怒った様子です。
「お兼なんて人、知りもしないわ。あたしは染次(そめじ)っていうの。これでも辰巳(たつみ:深川という場所)の芸者なんだから」
「おれは、辰巳に借金はなかったはずだけどなあ」
「借金を取りに来たんじゃないわよ、バカバカしい。あたしはゆうれいだって言ってるじゃないの」
「それはわかってるけどさ」
 弥六はそこであくびをし、こぶしで涙を拭いて、じろじろと相手を見つめました。「それじゃあさ、辰巳(たつみ)の芸者さんのゆうれいが、どういうわけで俺のところなんかに出てきたんだい?」
「それは、あたしにだって事情があるのよ」
「誰にだって事情はあるだろうけどさ。でも、ほかのこととは違ってゆうれいなんだから。そっちの都合だけで出てくるなんて、おまえ、ちょっと勝手すぎやしないか?」
「あんたはわけを知らないから、そんな冷たいことが言えるのよ。男って、みんなそう。みんな冷たくて、情けのかけらもない、ケダモノなんだから!」
「怒ったってしょうがないだろ。俺に怒るなよ……。おまえ、誰かにだまされたのか?」
「だまされたなんて、そんな生やさしいもんじゃないわよ」
 ゆうれいの女はそう言いかけて、そこへちょこんと座りました。
「悔しくて、悔しくて……。男なんて本当にみんな、嘘つきで、ろくでなしで、浮気者で、ああ、もう、畜生(ちくしょう)! どうしてくれようかしら!」
「それならさ、そんなに悔しいなら、その相手のところへ化けて出て、そいつをとり殺すなり何なりすればいいじゃないか」
「やったわよ!」
 女は身もだえをしました。
「言われなくたって、それくらいやったわよ。その男をとり殺しただけじゃないわ。その男の家族も親戚も、みんなとり殺してやったわ!」
「それなら、それでいいじゃないか。もう文句はないはずだろ?」
「文句なんてないわよ。文句はないけれど……でも、もうとり殺す相手はいなくなっちゃったし、あたしは恨みを抱いたままのゆうれいだから、天国へも行けないの。宙ぶらりんのまま、行く場所がなくなっちゃったのよ」

三 夜なかの宴(うたげ)に酒と蒲焼(かばやき)

「なるほどねえ。へえー、そんな感じなのか。ふう、行く場所がないなんて、俺も知らなかったよ」
「あんたは死んだことがないから、そんなのんきなことが言えるのよ。人間、死んだからって、誰もが天国へ行けるわけじゃないんだから。地獄にでも入れてもらえればまだマシよ。天国へ行けずに、空をさまよっているゆうれいが、たくさんいるんだから」
「おどかすなよ。変な話はやめようぜ」
「あら、本当よ。嘘じゃないわ」
 染次(そめじ)姐さんは横座りになって、バラバラの髪をうしろへかき上げながら言いました。
「中でも天国へ行けないのは、人を恨んで死んだ人よ。そういうのは『しんい』といって、どんなに偉いお坊さんがお経をあげて供養してくれてもダメなの。天国はもちろん、地獄へも行けなくて、自分の恨みに自分自身で苦しみながら、永遠に、空をさまよっていなきゃいけないのよ」
「そいつはひどい仕組みだな。死んでからもそんな苦労があるなんて、驚きだぜ。そうなると、俺もちょっと考えなきゃな」
 弥六は起き上がりました。首すじやスネをボリボリとかいて、それから念を押そうとして相手を見て、一度は目をそらしましたが、今度はびっくりしたように見直しました。
「どうしたのよ。何をそんなに見るの?」
「へえー、ふーん。こいつは、なかなかの……」
 彼はなおも相手を眺めながら言いました。
「こいつはどうして、おまえ、なかなかの美人じゃないか」
「あら、いやだ。やめてちょうだい、そんなこと」
「いや、本当だって。俺も辰巳(深川の遊び場)へは五、六回遊びに行ったことがあるが、おまえみたいな粋(いき)な姐さんには会ったことがないぜ。ゆうれいじゃなけりゃ、タダじゃおかないところだ」
「あら、あんた。口がうまいのねえ」
 染次姐さんのゆうれいは、体をくねらせて、こちらを斜め上から見つめ、色っぽく着物の袖(そで)で叩くマネをしました。
「お世辞は言わないよ。嫌いなんだ」
「それなら……あたしを、奥さんにしてくれる?」
「ゆうれいじゃなけりゃなあ」
「いいじゃない、ゆうれいだって。昼間はダメだけど、夜だけなら、料理も洗濯もできるわよ。そのほか、普通の奥さんがすることなら、たいていのことはしてあげるわ」
「うまい話だけど、まさかねえ」
「疑うんなら、今夜ためしてみたらいいじゃない。お酒の用意もしてあげるし、おかずも作ってあげるわよ」
 弥六は頭をかきました。
 姐さんを見て、また頭をかいて、「ものはためしか」などとつぶやきましたが、そこで急にガッカリして首を振りました。
「そいつはいいが、あいにく米も味噌も切らしてるし、酒もないんだ。とにかく、お金がすっからかんなんだよ」
「情けないわねえ、あんた」
 姐さんのゆうれいはそう言いましたが、
「いいわ。

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