「我々は敵にかこまれている、しかしこの砦はかたい、兵糧も弾薬もたくさんある、そして一日二日のあいだには三百人の後援隊が来るんだぞ、それよりおくれることは絶対にない、一日か二日だ、そのあいだがんばってくれ、わかったか」
「官軍の名をけがすな」
石岡吉次郎も大声に叫んだ。
隊士たちはみんな「全滅しても!」という強い意気をふるいおこしながら部署へもどった。半九郎は日の暮れるまで矢倉の上にいた。もし一人でも生き残った斥候が帰って来はしまいかと思ったからだが、それは無駄だった。谷底からはい上る夕暮れの霧につれて、たそがれはいつしかあたりを包み込み、月でも出ているらしく明るい空にきらきらと星がまたたきはじめた。
ふと人のいるような気配がしたので、「――誰だ」といって振り返ると、いつ来たのかお糸が後ろに立っていた。
「お糸さんだね、こんなところへ何にしに来たの」
「……心配で、たまりませんの――すっかり取り囲まれたのですってね」
「取り囲まれたって大丈夫だ」
「後援隊は本当に来るんですの? 三百人も来るって本当ですの?」
「――聞いていたのか」
「昼間に鉄砲の音を聞いたとき、あたしもうだめなんだと思いました」
半九郎はそっと少女の肩を抱いてやった。
「大丈夫だ、本当に後援隊は三百人来る。明日のうちには着くだろう。私を信じて、心をしっかり持ってくれないか」
「早く酒田へ帰りたいんですの」
「大丈夫だよ」
強く言ったものの、半九郎の胸は苦しかった。
草苅峠を越えて来る後援隊は、はたしてうまく土生一族の包囲を突き破ることができるだろうか? もし失敗したらどうするか?
――そのときは全滅だ!
ここで全滅しないまでも、全滅の覚悟で敵の中を庄内へ抜けなければならない。そのときには、足手まといの少女などを連れて行けるはずもなかった。
「あら、梟(ふくろう)が鳴いていますわ」
お糸がそう言った。
砦の裏山から、ほう、ほう、という寂しい梟の鳴き声が聞こえてきた。
――お糸はふと、両手を丸く重ねて唇にあてると、
「ほう、ほう、ほう」
とうまく梟の鳴き声をまねた。
「よく似ているでしょう?」
そう言いながら、いたずらそうに肩をすくめて笑った。
「こうすると、仲間だと思って誘われて鳴くんですの。酒田ではみんなよくこうして遊びますわ」
「私も子供のころにして遊んだことがあるよ」
昔を思い返すように、半九郎も笑って言った。
「ほう、ほう、ほう、ほう」
お糸が続けて鳴くと、裏山の方から同じようにまねて、梟の鳴く声が聞こえてきた。
……半九郎は子供にかえったような、あまく懐かしい気持ちでしばらくその遊びを楽しんでいたが、間もなく、
「隊長! こちらですか」
という石岡の声にはっと振り返った。
「おいでください、後援隊の使者です」
「――なに、来たか」
「騎馬の兵が一名、いま先ほど到着しました」
半九郎は矢倉を駆け下りた。
五
使者はまだ前髪が残る若い男だった。
「後援隊三百人、松原金之進殿の指揮にて前進中です。二時間もすればここへ着くでしょう。――私が使者としてまいりましたのは、副総督よりの命令がありまして、明日の夕方までに黒川まで進めとのことでございます」
「明日の夕方までに?」
「はい。それで後援隊が到着するまでに、出発の用意をしていただきたいと申しております。松原隊長の考えでは、今夜半にはここを出立しなければならないとのことでした」
「――わかった、ご苦労だった」
半九郎は、それは無理なことだと思った。
三百人の後援隊が意外に早く来てくれたことは助かったし、この若い使者が無事にここまで来られたところから察すると、峠の敵勢は案外手ぬるいのかもしれない。
――しかし、土生一族がこの谷間を取り囲んでいるのは間違いないことなのだから、その様子をしっかと確かめないうちに進軍するのは危ういことである。
――だが命令だ、できる限りのことをやろう。
そう覚悟を決めて、
「進軍の準備にかかれ」
と命を下した。
「部署についている者は離れるな。敵は間近にいるんだ、油断するとやられるぞ。――篝火(かがりび)を消せ」
「篝火を消せ――」
命令は次から次へと伝えられた。
防備の位置についている兵を別にして、残りの者たちは手早く荷造りをはじめた。
……援軍はもうすぐ到着する。そうすればもうしめたものだ。このいやな梟谷から抜け出して、酒井軍とはなばなしい合戦ができるのだ。
――兵たちは元気づいて支度を急いだ。
その騒ぎのあいだに――。
砦の裏の防壁を、影のようにすばやく乗り越えた者があった。
少女お糸であった。
防壁の外へ出ると、つま先立ちで登るような藪の中を小さな野獣のように走っていき、三十メートルほど登ると、――両手を丸めて重ね、そっと唇にあてて、
「ほう、ほう、ほう、ほう」
と梟の鳴き声をたてた。
――ほう、ほう。
右手の方で答える声がする。
お糸はその声を頼りに走った。分からなくなるとまた梟の鳴き声をまねた。――そんなことを三、四回繰り返すうちに、いつの間にか櫟(くヌぎ)の林の中に入ったと思うと、
「――お糸か」
と声をかけながら、一人の男が少女の前に現れた。
「あたしです」
お糸は息を弾ませていた。「見張られているからすぐ帰ります。――後援隊は三百人、もう二時間もすれば着くそうです。そして夜中には黒川へ向けて進軍するそうです」
「よし、ではやはり屏風岩(びょうぶいわ)が役に立つな」
「火薬はもう詰めてあるのですか」
「五十貫ずつ五か所だ。――松明(たいまつ)を一本投げつければどかーんといく。五百や七百の人数は一遍に生き埋めさ」
「では、これで帰ります」
「もう少しだ。怪しまれるな」
お糸は返事もせずに走り出した。
はたして! 彼女は土生(はぶ)一族の者であったのだ。
――石岡の疑った通り、官軍の動きを探るために、わざと縛られて残っていたのである。しかも十五の少女の身で!
お糸は土生一族の血を受けて生まれた。
この梟谷(ふくろうだに)は土生一族のものである。
何百年のあいだ一歩も他人におかされることなしに守ってきた、先祖から伝わっている土地である。
――庄内の殿様以外には、何者といえども侵入することは許されないのだ。
これが土生一族の考えである。
世が騒がしくなってきた、そして官軍というものがこの梟谷へも侵入してくるという――世間から離れて暮らす梟谷の人々には、官軍がどうして庄内の殿様を攻めようとするのか分かっていない。
知ってはいないが、彼らにとっては捨てておけない大事である。
庄内の殿様を攻める奴!
土生一族の土地を犯す奴!
それだけで一族の人々は立ち上がった。
一人も生かして通すな!
そしてこれだけの計略を立てたのだ。
そしてお糸はりっぱにその役割を果たしたのだ。
「もう大丈夫」
お糸はほほえみながら砦へ戻った。
六
役目を果たした心の油断であろう。
藪をすべり降りて、元の場所からすばやく防壁を乗り越え、すっと砦の中へ飛び下りたお糸は、いきなり右手と首をつかんで引き据えられた。
「――小娘! 見つけたぞ」
石岡吉次郎(いしおかきちじろう)だった。
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