初級翻訳・山彦乙女 第38話

山彦乙女

「ほっ、ほう、ほっ、ほう」
かなり遠いらしい、郭公に似ているが、よく聞くと女性の声である。
それは、つぎつぎにやまびこを呼んで、一種の幽玄な反響の尾を、ながくひいた。
半之助はちょっと立ち停った。
しかしもう慣れているとみえて、両手で口を囲って、「ほっほう、ほっほう」と谷のほうに向って叫んだ。
それに対する答えはなかった。
彼はふり向いて、灌木の繁みを押し分けながら、うしろにある小さな洞窟、というよりも、岩の裂目といったくらいの、暗い穴の中に入り、すぐに食器を持って出て来た。
キョッキョッ キキキッ
頭上の樹の枝で、べつの鳥が鳴きだした。
釜戸から六尺ばかり離れたところに、方五尺ばかりの、やや平たい岩がある。
巨大な岩の、頂面だけ地上に出ているらしい。
蘚苔に包まれていたのを、幾らか手を加えたとみえるが、半之助はその上へ、出して来た食器を並べた。
「ほっ、ほう……」
さっきの声が、こんどはずっと近いところで、聞えた。
半之助は頭上をふり仰いだ。
明るみかけた梢のあたりで、にわかに小鳥が騒ぎだした。
あわただしく翼の音がし、なにかがこぼれでもするように、枝と枝のあいだを、ばらばらと、小鳥の群が舞い立って、いま聞えた声のほうへと、先を争うように、飛び去っていった。
その騒ぎで、雨のように落ちて来る、枝葉のしずくを、避けながら、半之助は快さそうな、期待の微笑をうかべ、岩の食卓の左右に、自分で編んだらしい、蒲の円座を置いた。
いま飛び去った方向から、やがてまた、小鳥たちの、やかましい声や、羽音が、しだいにこちらへ戻って来た。
灌木の枝の折れる音がし、「だめだめ、うるさいわよ」などという、女の、あまい叱り声が聞えた。
明るくなるにしたがって、たちこめた霧が、まるで眠りからさめでもするように、少しずつ揺れだし、樹の間に濃淡の縞を描いて、山の高いほうへと、ながれ始めた。
「さあ肩からおりて、おりるのよう、だめ、もうたくさん」声はもっと近くなった。
そして、まもなく、下のほうから一人の娘が、霧を押し分けるようにして、こちらへ登って来た。
みどうの、花世であった。
彼女の姿も、あのときとは、すっかり変っていた。
たけながの髪をひっつめにあげ、ひとつかねに束ねて、うしろへ垂れている。
千草を染めだした藍摺りの、元禄袖の着物に、葛布らしい、白の奴袴をつけて、素足に半之助のとよく似た、革草履をはいていた。
うっかり見ると、少年のような姿である。
「お早う、ごきげんいかが」
声も少年のように、歯切れよく叫びながら、花世は大股に、こっちへ近よって来た。
躯つきも、ぐっとひき緊っているし、ゆたかに色の白い頬を、若い健康な血があざやかに染めている。
大きな、なにかの宝玉のような眸子と、柔らかくしめった、彫刻的な口元とを、さらにひきたてるかのような、上唇の脇の黒子が、かなりつよく眼を惹いた。
ぜんたいが、いかにもすがすがしく、伸びざかりの、匂やかな生命があふれているようにみえる。
彼女のまわりには、名も知れない小鳥どもが、群れ集まっていた。
かれらは花世の頭上を飛びまわり、肩にとまり、また地面におりて、彼女といっしょに、歩いて来るのもあった。
半之助は黙って、微笑しながら見ていた。
「あたし来たでしょ」
近づきながら、花世は自慢そうに云って、ぱちぱちとまたたきをしながら、つぶらな眼でこちらを見た。
「待っていて下すった」
「このとおり」
半之助はこう答えながら、岩の食卓をさしてみせた。

二

花世は、よろしい、というように頷き、給仕は自分がする、と云って、さも心得がおに、飯や汁の、鍋の蓋を取り、出来ぐあいをしらべてから、それらを椀に盛った。……このときも、花世は休むことなく何かをおしゃべりし続けていました。
まわりにまとわりつく小鳥たちを叱ったり、追い払おうとしてはまた呼んだりしています。
「だめよ、そんなに小さなお友達をいじめちゃ。お鍋の中に落ちちゃうわ。るりさん、火傷でもしたらどうするの? ちゃんと私の肩にとまりなさい」
ふたり分の朝ごはんの準備ができると、岩をはさんで、半之助と向かい合って座りました。
「ねえ、あたしのご飯やお汁のよそいかた、すごく上手でしょ? さあ、めしあがれ!」
そう言って半之助にお世話を焼きつつ、自分も食べながら、まったく思いがけないような突拍子もない話を、次から次へと話し続けるのでした。
花世が何かをおしゃべりしている間は、半之助は自分の考えにじっくりと浸ることができました。
というのも、彼女のおしゃべりは、自分の空想の世界に自分ですっかり酔いしれているだけで、相手がそれをどう思うかとか、そもそも聞いてくれているかどうかなどは、まったく気にしていない様子だったからです。

――たしかに、あのときの娘にちがいない。
半之助は心の中でそうつぶやきました。
天平時代のお仏像に似た端正な顔立ち、そして上唇の脇にある小さな黒子。
あれは間違いなく、あの山村座の茶屋で見かけたあの娘でした。
見れば見るほど、その確信は強くなっていきます。
――そして、あのときの声も……。
青山主馬に連れられて築地の丸茂へ行ったとき、二度耳にした、まるでカッコウ鳥の鳴き声のような、あの美しい呼び声。
――たしかに、あのときと同じ声だ。
しかも、そのふたつの場面をつないでいるのは、あの珍しい「菱形の紋」です。
もはや、ただの偶然の一致とはとても考えられません。まちがいなく、山村座の茶屋で姿を見かけ、丸茂の裏手でその声を聞いた、あの娘その人なのです。
それはもう疑いようがない、と半之助は思うのですが、その一方で、どうしても腑に落ちない違和感が残っていました。

あのとき、三人の若者たちの全身の汗をぬぐいながら、一言も口をきかずにきりっと立った凛々しい姿勢や、妖しくきらめく瞳、そしてどこか危険な悪の香りをただよわせるような美しさ。
いま目の前で無邪気に笑っている花世の、少年のような瑞々しさや、少しの汚れもない純粋な姿とは、あまりにもギャップが大きすぎたのです。

――たしかに、あの娘だ。
――しかし、あの娘ではないような気もする。
そんな不安定で、どちらとも決められない感覚が、頭からどうしても離れないのでした。

「ねえ、本当にすごいんだから、それはね!」
花世は話を続けました。
「まるでね、まっ白な雪の宮殿みたいなの! あたり一面まっ白で、お日さまが当たるとキラキラ光って、まぶしくて見ていられないくらいなのよ。それに、月夜に見るとなんだかすごく神秘的で……そうね、なんて言ったらいいのかしら……。ううん、とても言葉じゃ言い表せないわ。『すごい』って言うほかに、なんと表現していいか分からないの。あなたも実際に見たら、きっと分かるわ!」
そして、力を込めて言いました。
「ねえ、いっしょに行きましょうよ! あと四、五日して、満月の晩が来たら……ね、しょうさま、いいでしょう?」
「今度は『しょうさま』ですか?」半之助は苦笑しながら聞き返しました。
「そうよ、連れていってもらいましょう。でも、その『すごい宮殿』って、いったい何のことなんです?」
「あら、さっきちゃんと言ったじゃない! 甘利山のうしろ、その向こう側にある法王山よ。

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