初級翻訳・山彦乙女 第25話

山彦乙女

「この家の板前をしている、清太郎という人なんです。ご存じないでしょうけれど」
「うん、知らない。しかし、それはいい縁じゃないか。同じ家にいたのなら、お互いに気心が知れているだろうし」
「ええ、とっても優しくていい人なんです」
言いかけてから、あら、と顔を真っ赤にし、汗を吸った肌着を干すために慌てて立ち上がった。
「ごめんなさい、調子に乗って若さまと自分のノロケ話なんかして」
「あとでお祝いに、二人で一杯飲ませてもらおう。今のうちにその人にそう言っておいてくれ」
「はい、ぜひいただきに上がらせていただきますわ!」
冷たい砂糖水をひと口飲んで、半之助はその場に横になった。

三

お酒の準備をしようか、となのが戻ってき聞いてくれたが、主馬(すめらぎ)がもうすぐ来るだろうし、まだ何も欲しくなかったので、そのまま待つことにした。
――これで谷町とは縁が切れるだろう。
母はまだ未練があるらしい。
しかし、半分は諦めていたようだった。
もし、千之助が自分の代わりに佐枝の婿になりそうだ、と告げたら、母はどんなふうに思うだろうか。
「二人は伯母と甥だぞ」
ふと呟き、そんな言葉が自然と口から出たことに、半之助は少し驚いた。
――俺の気持ちは、母親からさえ、こんなに離れてしまったんだな。
たしかに、もうかなり前から、彼にとって母親の存在はうるさく感じられるようになっていた。
父親が生きているときは、そんなことはなかった。
小言も素直に聞けたし、身の回りのこまごましたことも進んでやってもらっていた。
もともと、よその家庭ほど厳格ではなく、一人っ子としてわがままに育てられたものだから、どちらかといえば母親には甘えっ子だったのだ。
今でも、母親のいないところでは、ときどき悲しくなるほど母親への愛情を感じるのに、いざ一緒にいるとたまらなく気が重くて鬱陶しく、いらいらしてくるのだった。それはまるで生まれつきの性質のようで、抑えつけようとしてもどうにもならず、だんだんと強くなっていくばかりだった。
こんどの役替えを引き受けたのは、単に谷町のわずらわしい付き合いから逃れるためだけではなく、母のそばから離れられるという点でも非常に好都合だったのだ。
御薬園はもともと江戸城内の吹上(ふきあげ)にあったが、寛永年間のころに、城の外の南北に分けて置かれることになった。
北側は高田御薬園といい、南側は麻布御薬園といった。
のちになって北側は廃止され、南側も小石川の御殿地へと引っ越したのである。
当時は典薬頭(てんやくのかみ)の管轄だったが、少し前に若年寄の支配へと変わり、御薬園奉行という新しい役職が決まって、目黒の駒場に新しく薬園が作られたのだ。
半之助は、その駒場の薬園で働くことになっていた。毎日通うわけではなく、休日のほかの日は、そこの小屋に泊まり込んで働くという規則である。
それは九月になってからの話で、まだ母にも話していなかったが、半之助にとっては待ち遠しくてたまらないほどだった。
――こうして、だんだんと、自分のまわりの人たちから離れていくんだな。主馬(すめらぎ)とさえも……。
半之助はそっと目を閉じた。
主馬とは誰よりも仲が良く、お互いの心の奥の隅々まで知り尽くしていた。
けれども、最近の主馬はどこか変わってしまっていた。
彼はもう、人間らしく生きるとは何か、なんてことについて悩んではいないようだった。
どうしたら意味のある、充実した生活を送ることができるのか――。以前は顔を合わせるたびに、真剣に議論し合ったものだが、今の主馬にとっては、そんなことはもうどうでもいい問題になっているらしかった。
――あいつは生き生きとし始めたぞ。
そんなむずかしいことを考える暇もなくなったのだろう、つまり、本当の意味での「現実の生活」が始まったんだ。
それは自然なことなのかもしれない。
人間は結局のところ、それぞれ自分の生活の中に入っていくものなのだから。
生活というものは世の中の仕組みの中にあるのだから、毎日の惰性や世間の常識にだんだん慣れていくよりほかに方法がない。
――そして主馬も、ほかの何千何万という大人たちと同じように、普通の大人の人間になっていくんだな。
こう心の中で思って、思わず小さくため息をついたとき、主馬が元気な足音を立てながら部屋に入ってきた。

四

「どうだった、うまく何事もなく穏やかに済んだのかい?」
「さあねえ、どうだか」
主馬が着替えるのを、寝転がったまま眺めながら、半之助はなんだかだるそうに答えた。
「忍耐を試されるような『いい話』っていうやつを、あらかじめ聞いておいたほうがよかったかもしれないな」
「その話ならあとでするよ。だけど、約束はちゃんと守ってくれたんだろうな」
「おれは約束通りにしたさ。だけど、守ろうが守るまいが、どうやらどっちでも同じことだったみたいだけどね」
「それはどういうことだ……」
「まあ、着替えてから話すよ」
主馬が浴衣に着替え、あとを片付けた「なお」が注文を聞いて部屋から出ていくと、半之助はようやくむくっと起き上がり、冲左衛門(ちゅうざえもん)や千之助(せんのすけ)とのやり取りを、だいたいのあらましとして語って聞かせた。
「ははあ、あやしげな人間、って言われたのかね」
主馬は首をかしげた。
「私はともかくとして、村田の名前が出たっていうことは、まさか適当に勘ぐって脅しをかけたわけじゃないだろうけどさ、そんなはずはないんだけどなあ」
「そうかねえ」半之助は手元にあった団扇(うちわ)を取り上げ、「こっちで向こうの動きを探っているとしたら、向こうだってこっちの様子を調べるのは当然じゃないのか? おれには関係のないことだけどさ、そういうのはお互い様ってものだと思うけどな」
「ある一点においては、もちろんその通りさ。柳沢を追い出そうとする動きは半分表沙汰になっているようなものだからね。だけど、私がやっていること、特に村田が担当しているような仕事にまで、向こうが感づくわけがないんだよ」
「それは青山が勝手にそう思い込んでいるだけなんじゃないのか。『隠そうとしても自然に出てしまう』っていうだろ」
「だって私は裁判の記録を整理しているだけなんだぞ」
汗を拭いながら、主馬は、まるで半之助に納得してもらいたいかのような調子でこう言った。
「ひと口に言うと、昔の裁判の正式な記録を作るために、過去の判例を整理して分類しているだけなんだ。しかも私が担当しているのは、寛永年間から慶安年間までのぶんだけだからね」
「だけど、反・柳沢の運動とまったく無関係ってわけじゃないんだろ」
「具体的に説明するとこうなんだ」
主馬は団扇であおぎながら、話し始めた。
彼は二年前に評定所(ひょうじょうしょ)で働き出すと同時に、今の仕事を割り当てられたのだという。
それは、古い裁判の記録を、その犯罪の内容と下された判決によってきちんと分類するという、極めて退屈で、まるでカビが生えたような仕事だった。
過去の裁判を判例法にするべきか、それとも成文法にするべきかという、根本的な調査なのだが、調べていくうちに「由井正雪(ゆいしょうせつ)の事件」に行き当たったのである。
ここでその出来事について長々と詳しく書く必要はないだろう。

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