初級翻訳・桑の木物語 第13話

山本 周五郎

「いやあねえ悠ちゃんたら、まるで取って付けたみたいじゃないの、ふだんすばしっこいくせにそんなことは気が利かないのね」
「黙ってろ、うるせえ、こっちあお祖父さんから云いつかってるんだ、さあ坐んなよ、母ちゃん」
「勿体ない、よして下さいよ、肩が曲るわ」
「あたしが叩くわ、あたしならいいでしょ」
「こうすると男親ってものは分の悪いもんだな、二人でそうやっておふくろのおっ取りっこをして、いってえおらあどうなるんだ」
こんな和やかな時間も、正篤がいないとまがもてず、なにか喰べても、酒を飲んでも面白くない。
外へでかけても勝んべは左官、瓦屋の熊は料理屋の板前、むかしの遊び仲間はみんなそれぞれ職についている。
どっちをみても自分ひとり置いてきぼりをくった感じで、だんだん家にひっこんでいるようになった。
正篤は翌年四月に出府した。
悠二郎は待ちこがれて、まるで恋人にでも逢うような気持で挨拶に出たが、正篤はただ祝いの言葉を聞くだけで、おそろしく冷やかな態度を示した。
のこって話してゆけとも云わない、……側にいる扈従たちを見ると、新泉も原もすました顔で、すっかり色が黒くなり、躯つきも逞しくなって、いかにも側近護衛といった身構えである。
悠二郎はつき放されたような、淋しい気持で御前をさがった。
正篤が出府するとすぐ、悠二郎に役目を解くという沙汰があった。
おぼしめしで扈従の役を免ぜられる。
追って沙汰あるまで身を劬るように、――そういうことで、お手許から二十金という御下賜があった。「――いよいよ大切な役職の入れ替わりだな。まちがいない、そのときこそ相応しい役につけてもらえるんだ。そのための待機ってわけさ」
悠二郎はこう考えて、自分ひとりで納得していた。
五月になって、その通りに重職の入れ替わりが行われた。
勘右衛門が正篤の後ろ盾となったらしく、かなり広い範囲におよぶ人事異動で、一時はお屋敷の中全体が大騒ぎになった。
――詳しい事情は彼にはわからない。おじいさんが何日も夜を徹してお殿様のお屋敷に泊まり込み、国許とのあいだを何度も早馬の使いが行き来したのだ。
それはおよそ一ヶ月ほどかかり、梅雨が明けるころにようやく一段落ついた。
だが、悠二郎には何の沙汰もなかった。
新泉は父親の宗十郎という名前を継いで、側用人に出世した。
原精一郎が納戸奉行になったのには驚いたし、そのほかにも昔の学友の中から二人、ふだんから「あの男はできる」と言われていた者で、悠二郎のよく知っている人間が三人も重役についたのだ。
そして、すべてが片づいたとき、勘右衛門が倒れた。
虚木(きょぼく)老人はもう七十六歳で、三年ほど前から体が弱っていたあんなに遊び暮らすのが好きだった人が、あまり外出もしなくなり、家で飲むお酒の量も減る一方だった。
――そこへ来て今回の重職交替の大騒ぎである。眠るヒマもないほど駆けずり回ったのだろう。つまりその働きすぎが原因となって、何もかもが決着して安心したのと同時に、ガクッと気力が折れてしまった感じだった。
病気は脳溢血(のういっけつ)で、倒れると同時に意識を失い、ほんの二時間ばかりして亡くなってしまった。
――知らせを聞いて、夜も更けていたが、正篤が急いで駆けつけて来たときには、すでに勘右衛門の息は引き取られていた。
九

正篤はまっすぐに病室へと下りていき、付き従う家臣たちも遠ざけて、亡くなったおじいさんとふたりきりで半刻(約一時間)ほど過ごした。
みんな遠慮するようにと言われ、家族もとなりの部屋へ下がっていたが、正篤がしきりに何かを言い募り、ときには声を押し殺してワンワンと泣きじゃくる様子が、ふすまの向こうから痛々しく聞こえてきた。
――正篤は残された家族にはとくに言葉もかけず、とくに悠二郎のことなどは目にも入らない様子で、弔問が終わるとさっさと帰ってしまった。
――お殿様はどうしちまったんだろう。ぼくのことを忘れちまったのか、それとも何か機嫌を損ねるようなことをしちまったか。やっぱり誰かの陰謀(たくらみ)だろうか。
彼はものすごくじれったくなり、心が落ち着くときは一瞬たりともなかった。
三度ほど新泉の家を訪ねた。「いちどお殿様にお目通りがしたい、うかがいたいことがあるんだ。どうか取り次ぎを頼むよ」
こう言って頭を下げて頼み込んだが、それはまったく無駄だった。
「お殿様は『しばらく待て』とおっしゃる。いずれ沙汰を出すから、それまで待つようにとのことだ」
新泉の言葉がだんだん信じられなくなり、原(はら)や、そのほか側近の知っている限りの人たちにも頼み込んでみた。
しかし最後には、「今後、そのような取り次ぎは一切しない」と言われてしまったそうで、それからは誰も彼の願いを聞いてくれる者はいなくなった。
――おじいさんも死んでしまった。
せめておじいさんだけでも生きていてくれたら、自分の不平をぶちまけることもできるし、慰めてももらえるだろうに。
だが、いまはもうそんな相手はどこにもいない。
父親は年寄役(老職)で勘定奉行をかねており、兄は左門と名乗って納戸方の吟味役になっている。
お母さんはもちろん愛情を注いでくれているけれど、おつねのように体当たりでぶつかってくるような愛し方ではなく、どこかにすきま風が吹いているようなよそよそしさがあった。
――彼は、自分がいかに孤独であるかをはっきりと感じた。
そしてどうにもやりきれなくなり、いてもたってもいられずに外へとびだしていくのだが、どこにも気が紛れるあてなどなく、いつの間にか自然と舟仙(ふたらせん)へと足が向いてしまうのだった。
それでも、まだそのころには希望があった。
正篤は「待て」と言っている、追って沙汰を下すと言っているのだ。
そのうち本当に呼び出されるかもしれない、そういう希望がまったくないわけではなかった。
――それが、十月になって、ある日突然あっさりと決着がついたのである。
人事や免職をあつかう老職に呼び出され、「ついにお呼びがかかったんだ!」と胸をワクワクさせながら出かけて行った。
ところがその老職は、こう告げたのだ。
「お思いつきがあって、本日より無役(お役目なし)に命じる。幼いころからの熱心な勤めをめでたいこととし、お手元から金五十枚、お召し物、そして生涯三十人扶持(ふち)を下される」
老職はこう言って、それぞれのほうびの品をそこに差し出した。
悠二郎は自分の家へ下がるとその足でまっすぐに舟仙へ行き、丸三日のあいだ帰らなかった。
お酒を飲み、ゴロゴロと寝転がり、芸人を呼んだかと思うとすぐ追い返し、夜中にふと起きあがってひとりブツブツ何かを言い、ひとりで冷や酒をあおったりした。
「三十人扶持の飼い殺しだって? くそっ、ふざけやがって!」
「どうしたの悠ちゃん、なにをそんなにイライラしているのよ。何かあったの?」
「うるせえ! お前なんかに知ったこっちゃねえだろ!」
「だって心配じゃないの! お酒ばかり飲んでるし、いつもイライラしているし、お屋敷へも帰らないし、お母ちゃんだって父親だって心配で気を揉んでるのよ。

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