「そのくせ、そういう未知のものごとに、触れてみたがるのが人間っていうやつさ」
「口で言うぶんには、地面から天まで説明することができるさ」と房二郎が言った。「他人の火傷は痛くないっていうからな」
そして、本当の痛みがやってきた。
その夕方、ちょび髭の男が記事部屋へ入ってきて、木内桜谷と房二郎に小さな紙包みをわたし、明日から来なくていいと言った。
「これはわずかやけど、わいの気持ちや」と文華はちょび髭をなでながら言った。「悪く思わんと受け取ってや」
私の書き写しの仕事はどうなるんですかと、房二郎が言おうとしたとき、木内が机の前から飛びあがるように座り直し、ちょび髭に向かって何度も何度も頭を下げた。
「西川先生、どうかこのとおりです!」と木内桜谷は言った。「それだけは待ってください。私はこれまでもずいぶん書いてきたつもりですが、これからはもっと書きます! 桜所さんや桜水さんのぶんも書きますし、わ印の本も月に二冊や三冊は書きます!」木内はまたおじぎをした。「毎月の給金も減らしてもらっていいです! おっしゃることはなんでも致しますから!」
およしなさい、木内さん――と房二郎が言う前に、ちょび髭はニタニタと笑って、こう言った。
「それはどこかよそへ持ち込むためやろ」
「木内さん」と房二郎が呼びかけた。「お願いです、西川さん」と、木内はさらに三度もおじぎをしました。「どうか今すぐそんなことにしないでください。せめてあと半年だけでも待ってください。そうすれば、私がきっとあなたのお役に立てるということが、分かっていただけるはずですから」
「起きなはれ」と、ちょび髭の男――文華は、自分のちょび髭をなでながら言いました。「いくら言うたかて、決めたことは決めたこっちゃ。ここで無駄な口をきくより、もっと月給をたくさん出してくれるところを探して、うまく取り入るほうがええと思いまっせ」
木内桜谷は黙り込み、両手を床につけて頭を垂れました。
いつか、木内や印刷部屋の二人が、給料の値上げだと大声で叫んだことがありました。
そして、夫婦喧嘩の末に文華が廊下へとびだし、まるで地べたを這う平ぐものように頭をすりつけて謝る姿を、このおれに見られたことがありました。
あのときの恥を、今こうして仕返ししようというんだな、と房二郎は思いました。
そのとき、ちょび髭がふと房二郎の方を向き、歯をむき出して意地悪く笑いました。
「房やんには給料もろくに出さなんで、ほんま済まなんだな」と文華は言いました。「悪う思わんといてや」
房二郎の我慢は、そこでぷつんと切れました。
彼は立ち上がるなり、自分よりも五寸も背の低い文華の襟を左手でがっちり掴み、右手でその頬へ強烈な平手打ちを食らわせました。
「給料なんて、こっちからくれてやるよ!」と、房二郎はさらに平手打ちを浴びせかけました。「きさまを人間だと思ったら、こんなことで済ませやしないんだぞ、よく覚えておけ!」
それから彼は、文華を勢いよく突き放しました。
文華はよろよろとよろめき、障子ごと廊下へ仰向けに倒れ込みました。
その瞬間、木内桜谷がパッと跳ね起き、いきなりちょび髭に馬乗りになって、片手でその襟を掴み、もう片方の手で相手の頬を、まるでペタペタとなでるような勢いで殴りつけました。
「この野郎、人をばかにするな!」と、木内は怒鳴り声を上げました。「人をばかにするな、この野郎、このちょび髭野郎、人をいったい何だと思っているんだ!」
本当に怒ったときには、人間というのは思うような悪態ひとつつけないものだな、と房二郎は自分のこれまでのことにも重ね合わせて切なく思い、木内桜谷の肩をぽんと叩いて、「もういいよ、帰ろう」と言いました。
そこへ階下から、女狐のようなおそでがドタドタと駆けあがってきました。そして、ちょび髭が組み伏せられているのを見るやいなや、まるで頭がおかしくなったようにキーッと叫び声を上げました。
「泥棒や! 人殺しや!」とおそでは足をバタバタと踏みならしながらわめき散らしました。「誰か来て下さい! 泥棒ですよう、人殺しですよう!」
そして、木内桜谷めがけて猛烈につかみかかろうとしました。
房二郎はそのおそでを力いっぱい突き飛ばし、木内の肩を掴んで文華から引き離しました。
印刷部屋の中はしんとしていて、人の声もせず、物音ひとつ聞こえませんでした。
おそでは仰向けにひっくり返り、年齢に似合わないまっ赤な下着と、焦げ茶色の足が、なんとも言いようのないほど醜悪に房二郎の目に飛び込んできました。
「行きましょう、木内さん」彼は木内を抱き起こしながら言いました。「ここに持って行くようなものなんて、何もないんでしょう」
「人殺しや! 泥棒や!」とおそでは足をバタバタさせながら喚き続けていました。「誰ぞ来て! 誰か番所へ届け出てえ!」
房二郎は木内桜谷を抱えるようにして階段を下りました。
女狐はまだ上で喚き立てていましたが、下まで降りると、女中のおかつが二人の草履を綺麗に揃えて待っていました。おかつは何やら慰めの言葉を言いたそうにしていましたが、極度の吃音(きつおん)のせいで、ただ顔を真っ赤にして、意味のわからない声を漏らすばかりでした。
「お前も早く、こんなうちは出てちまうがいいぜ」と、房二郎はおかつに言いました。「ほかに奉公する気なら、もっとましなところがあるはずだ。こんなところにいたら、骨の髄までしゃぶられてしまうぜ」
店の外へ出たとき、後ろからおかつが「ありがとよ……」と、言葉をつまらせながら言う声が聞こえました。「飲もうや、木内さん!」と、彼は大きな声で言いました。「こんなきたないお金なんか持っているのも恥ずかしいや、みんな飲み代に使っちまおうぜ!」
「そうだ、みんな飲んじまおう」
木内も、あまり元気のない声で言いました。
「今日は、川の向こう側へ行こうぜ」
八
「どういう気持ちなんだか、さっぱりわからないね」
「わからないことなんてないさ」と、木内は言いました。「おめえに惚れているからよ」
「嫌なことを言わないでくれよ」
「そうじゃなくて、着物を仕立ててくれたり、お小遣いをくれたりする道理がどこにあるっていうんだい?」
「だって相手は、七つも年上だぜ!」
「もったいないことを言うなよ」木内は湯呑み茶碗の酒をすすりながら言いました。「あれほどの美人なんて、千人に一人だっていやしないぜ。それに、愛し合うのに年齢なんか関係ないさ!」
「あら、うらやましいような話じゃないの」と、お酒を持ってきた女が言いました。「もっと詳しく聞かせてよ!」
「よけいな口出しをするなよ」と房二郎は女の顔を見つめ、それから狭い部屋の中を見まわしました。「ここは、いったいどこなんだ?」
「そらっつかいね(知ってるくせに)」女は房二郎の肩をポンと叩きました。「ちゃんと知っているくせに! さあ、お酌をさせてよ」
「門前仲町(もんぜんなかちょう)だよ」と木内が言って、女に手をひらひらと振りました。「お酌はいいから、二人っきりにしてくれよ」
「なによ、この人!」女は木内にかじりつきました。
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