彼はぼんやりとそう思いました。
しかし、彼の意識そこにずっととどまり続けることはありませんでした。
すっぽんぽんになった女の肌の白さや、重たそうな肉体の丸み、驚くほど力強い腰まわり、そしてすでに少し印象がぼやけかけていながらも異様に美しい顔立ちや、ぎらぎらと輝く両のひとみなどが、幻の稲妻のきらめきのように、浮かんでは消え、消えてはまた浮かび上がってきたのです。
雷鳴は、なおもゴロゴロと鳴り続いていました。暗いお部屋の中は、ときに目がくらむようなピカッと光る稲妻ではじけ、何もかもをバリバリとひき裂くかのように、ものすごい雷鳴が頭の上でゴロゴロと暴れ回りました。
お芝居を楽しむ茶屋で、女性が裸になって汗を拭くなんていうことは、決して珍しいことではありません。
また、それをたまたま目撃したというのも、めったにない機会ではあるかもしれないけれど、絶対にありえないような偶然ではないはずです。
それなのに、その光景は半之助を、これまでに味わったこともないような、まるで悪いことをしてしまったかのようなドキドキ感と、ちょっと怖いくらいの魅力とにすっぽりと包み込んでしまいました。
「ばかな、なにをそんなに気にしてるんだ」
やがて彼は、こう小さくつぶやきました。
あんなことにすっかり気を取られている自分が、なんだか急に恥ずかしくなったのです。
「――つまらないな」
ため息交じりにそう吐き捨てると、彼はよいしょと起き上がり、しびれてしまったほうの腕をぐっと揉みました。
建物の下の裏手では、なんだか人々がワイワイと騒いでいる声が聞こえていました。
半之助はそれをぼんやりと聞きながらも、頭の中はさっきの光景からどうしても離れられずにいました。
裸になって汗を拭いてもらうこと自体は、確かに珍しくありません。
けれども、女の人があんな場所で、たとえお世話係の召使いだとしても、若い男の人たちを三人目の前にして自分の素肌をさらけ出し、彼らの手で汗を拭かせるというのは、どう考えても普通のことではありませんでした。
――いったい、あの人たちは何者なのだろう。
武士ではないことは、若い男の人たちが浅黄色の肩衣(かたぎぬ)を着ていたことでだいたい分かりました。
それに、彼らのどこかピリピリとしたものものしい様子からすると、大道芸人のような人たちでもないことが見て取れました。
おそらく、どこかのとってもお金持ちの町家の人たちなのだろうけれど、いったい誰かの奥さんなのだろうか、それとも娘さんなのだろうか。
――眉は落としていなかったな。
いや、そうじゃない、眉はなかったようにも見えたぞ。
そんなふうにあれこれと考えていると、ドタバタと荒々しい足音を立てて「おいそ」が2階へ駆け上がってきて、「お連れさまが来ましたよ!」と叫びながら窓のほうへ走っていきました。
「かみなりさまが落ちたんですってよ! 尾張町にある『山幸』っていう呉服屋さんなんですって。あらあら、ほんとだわ、あんなにすごい煙がたくさん上がってる!」
そのとき、またしても激しい雷鳴がドーンと襲いかかってきました。
おいそは両手で耳をピタッとふさぎ、体を小さく縮こまらせながら、一人で大騒ぎして叫び立てましたそこへ、「遠藤千之助(えんどうせんのすけ)」がひょっこり部屋に入ってきました。
「あの人たちは、遅れますよ」
彼は部屋に入るなり、そう言いました。
「谷町(たにまち)のほうで足止めを食っちまいましてね、そこから動けなくなってしまったんです。それで私がひと足お先に、そのお知らせも兼ねてやって来たというわけなんです」
「それはご苦労だったね」
「ほかにちょっとお話ししたいこともあるもんですから、呼ばれてもいない席にお邪魔するのは失礼だとは思ったんですが……ご迷惑じゃありませんでしたか?」
「そんなことないよ、どうぞお入り」
半之助はおいそのほうを振り返り、お酒の準備をするように命じました。
おいそは上の空の様子で、真っ赤な火が見えだしたとか、隣の家まで燃え移りそうだとか、なんだか名残り惜しそうにブツブツ言いながら、階下へと降りていきました。
「あの人たちは、それぞれに面白い人たちですね」
千之助は席に座るとすぐに、扇子をパタパタと使いながら話を続けました。
寺にいたときと同じように、どこか人をバカにしたような、からかうような口ぶりです。
「村田という人は、年をとった真面目な農家といったふうだし、青山さんはなんだか優雅にとぼけたようなことを言うし、松室という人はまあ、あの人はああいう人らしいけれども、正木さんはまたひどく無邪気でね」
彼はくすくすっと笑いました。
「本当は私がちょっと、わざと探りを入れてみたんですよ。そしたら正木重兵衛さんが見事にポロッと口をすべらせましてね、たちまち私の正体に気づかれてしまったというわけです。じつに悪気のない、愛すべき人だと思いましたよ」
「そのとおりだね」
半之助は横のほうを向きながら言いました。
「みんな、悪気のない人間ばかりだよ」
「それに、みんながお互いを心から信頼し合っている」
千之助は、従兄(いとこ)である半之助の皮肉な態度などまるで気にしない様子で続けました。
「私はほんの少しお話ししただけですが、すぐに分かりましたよ。みなさんの間にある、あの固くて純真な友情のつながりというものがね。じつに素朴で美しいと思いましたよ」
「――――」
「あのう、みなさんはどういうご関係でお知り合いになられたんですか? どこかの学問所なんですか?」
「さっき言っていた『話』というのは、そのことかい?」
「もちろん、それだけじゃありませんがね。でも、ちょっと珍しかったものですから。この軽薄で、ごまかしだらけの世の中に、どうしてあんな素晴らしい友情が生まれたのか、ちょっと興味をそそられたんですよ」
「――空雷(かららい)かな」
遠ざかっていく雷の音を聞きながら、半之助は独り言のようにボソッと言いました。
あんなにあんなに激しく鳴り響いて、空も真っ暗になったというのに、雨が降る様子はなく、途切れた雲の間から、だんだんと青空が大きく広がっていくのが見えていました。
「私とお話しするのは、おいやなんですか」
「――どうしてそんなことを」
「なんだかご機嫌も斜めのようですし、私の質問にも答えて下さらない」
千之助はまた、うす笑いを浮かべました。
「そんなのは今に始まったことじゃありません。貴方がいつも私を避けていらっしゃることは、ずっと前から知っていましたよ。いくら一つ木(ひとつぎ)のお宅へお伺いしても、一度だって親しげに話をして下さったことがない。必ず私を避ける。いったいどうしてなんですか?」
「――そんなことはないよ。それはおそらく、ただの偶然だろう」
そのとき、おいそと「なお」の二人が、お酒やおつまみの乗ったお膳を運んできました。「偶然ですって、とんでもない」
お世話係の女の子たちが去るのを待ちきれない様子で、千之助はすっと半之助に体を寄せました。
「理由は大体わかっているんです。隠したってダメですよ」
「隠すって、いったい何を……」
「言いましょうか」千之助の額がスッと白くなりました、「僕の父のことです。
初級翻訳・山彦乙女 第8話
山彦乙女
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