初級翻訳・山彦乙女 第9話

山彦乙女

父と母のことですよ」
「――わからないね」
「ダメですよ、あなたはいまビクッとなさったし、僕の目が見られないじゃありませんか。何もかも知っているということが、お顔にちゃんと言葉として書いてありますよ」
「失敬だが、帰ってくれないか」
半之助は落ち着いた声で言いました。
「何のことだかわからないが、私は他人からそんなふうに言われることに慣れていないし、こんなところでこんなおしゃべりをしたいとも思わない。話があるなら家で聞くことにしよう」
千之助はじっと相手を見つめました。
細長く、ほっそりとしていて、神経がむき出しになっているような顔が、ふと泣き出しそうな形に歪みました。
「――あなたにはわからない」
彼はつぶやくように言いました。
「――僕のような親を持った人間が、どんな気持ちで生きているか、どんなに辛く、恥ずかしい気持ちで、毎日毎日を過ごしているか」
「――――」
『あなたは「帰れ」と言うことができる。そして、私が帰ればそれでさっぱりする。もうすぐお友達が来るでしょう。お互いの心の底まで知り尽くし、心から信頼し合っているお友達が』
「――――」
『誰に気兼ねすることも遠慮することも無く、楽しくお酒を飲んで、自分の思うままに語り合うことができる。そのときはもう、僕のことなんてあなたの頭には影も形もない。もし思い出してもらえるとしたら……そうだな、僕には目に浮かびますよ。あなたはふんと鼻を鳴らして「ああ、あの迷惑な奴ね」って』
「もう一度言うがね」半之助は我慢が限界に達したように、かなり強い声で遮りました。
「そんなわけのわからない、不愉快な話を言うのはやめてくれないか。私には少しも興味がないし、ただただうんざりするばかりだ」
「ほう、うんざりしますか」
千之助は自分の刀を取り、左手に持ち替えました。
人と向かい合って座るとき、刀は右手に持ち、右側に置くのが正しいマナーです。
そうでなければ「あなたに敵意があります」とみなされても仕方のないことなのですが、いま千之助が左手に刀を持ち替えたその態度には、思わずカッとなったような、ほとんど殺意に似たものがありました。
「ひとこと言っておきますけれどね」彼は体を震わせながら言いました。「僕はあなたを憎んでいるんです。あなたが僕の家の秘密を知っていること、そしてもう一つ、父が僕よりもあなたを可愛がっていたことでね」
半之助は黙っていました。
「僕はいつかあなたと決闘することになるでしょう。あなたが生き続けて、幸せでいることは、僕には絶対に許せませんからね」
そして彼は、部屋から出ていきました。
半之助は重苦しい気持ちで、一人でお酒の盃を取りながら、「何か不吉なことが起こりそうだ」というお寺でのあの予感が、どうやら本当になってしまったことに気づきました。
「いったい、これから何が始まるんだ」
彼はそうつぶやくと、大きくため息をつきました。
まもなく、村田や青山たちがやって来ました。

若い消息

一

新御番(しんごばん)は、世間では「番方(ばんかた)」とも呼ばれていました。
半之助が勤めている役所は、建物のなかの入口をはいった北側にあり、縦長で十畳ほどの広さでした。書類をしまう書庫と大きな箱が左右に並び、そのあいだに、古びた机が五つ置いてありました。
廊下に面したほうは明るい障子でしたが、ほかの三方は壁とふすまだったので、薄暗いうえに、いつもジメジメと湿気がこもっていました。
梅雨の時期から秋口にかけてそれが一番ひどくなり、朝早く仕事場に出ると、敷いてある畳に青いカビが生えていることさえ、珍しくありませんでした。
部屋の中は年中、何かが腐ったようなにおいが立ち込めていました。
天井も柱も、ふすまも障子の桟(さん)も、みんなどす黒く古びており、ハエのフンが一面にこびりついていました。
そして、それらのものをじっと見つめていると、絶え間なくすり減り、崩れて朽ちていくのが見えるかのようでした。
働き始めてから、およそ二年。
半之助はすでに、毎日の単調な仕事にすっかり飽き飽きしていました。
仕事は書類の整理なのですが、その内容がびっくりするほど単調で面白みがないのとは反対に、どんな小さな文字や言葉の端にいたるまで、めちゃくちゃに細かいルールや決まりがあり、一ミリたりともそこから外れることが許されませんでした。
それが何よりも、耐えがたくやりきれなかったのです。
自分のアイデアや工夫がいっさい使えない仕事、進歩の全くない事務作業ほど、人を疲れさせ、退屈させるものはありません。
その年頃の青年たちがみんなそうであるように、彼もまた、自分の将来に大きな夢を持っていました。
それはまだハッキリとした形ではないけれど、充実していて、キラキラと輝いていて、血がドッと沸き立つようなものでした。
――生まれてきたこと、そして生きていることを、心の底からお祝いしたくなるようなもの。
――そして、自分にしか成し遂げられない、自分のためにだけ存在するようなもの。
そういう特別な何かが、きっと自分の未来にはあるはずだったのです。
しかし、どうやらそれは、若い頃のただの空想でしかなさそうだと思い知らされ始めていました。日々の単調な事務や、同じ役所の同僚たちが、現実に、その証拠を示していた。
いつか、机を並べている、金井なにがしという同僚が、にやにや笑いながら、こんなことを云った。
――そんなにあせってもむだですよ、世間にはもっといろいろな生き方がある、第一歩から始めて、しだいに発展して、やがて実をむすぶ、というようなのがね。
――だがわれわれは始めから、目的地に立たされるわけです、いってみれば水のいっぱい詰った壜のようなもので、いま生活しているこの状態が、このままで終りまで続く、ここからさきにはなんにも無い、壜はいっぱいで、一滴の水を加えることもできないんですよ、まあゆっくりやるんですな。
そのとき半之助は答えた。
――誰も彼もが、その壜をごしょう大事に、持っているとは限らないでしょう、私なら、ときには中の水をぶちまける、くらいのことは、やってみたいですね。
――やってみるんですな、但し、早くしないと、その元気がなくなりますよ。
金井という男は笑った。
彼の云ったことは、そのままでないにしても、かなり事実にちかい、ということを、僅か二年ばかりのあいだに、半之助はほぼ理解した。
もちろん、半之助はそれを、肯定しているわけではない。
現実の証明するものが、いかに動かしがたくみえるにせよ、そのために、自分の将来を諦めたり、絶望しているわけでもなかった。
彼にはいま、四人の友がある。
青山主馬のほかは、昌平黌からの知りあいであるが、かれらとも、しばしば、そのことを語りあった。
言葉を飾ったり、衒ったりする必要のないなかまなので、相当くどく論じあったものであるが、――このままではだめだ、なにかしなくてはいけない。
という点は一致しても、ではなにを為すべきか、という段になると、誰にも、具体的な思案は出なかった。
村田平四郎はみんなより二つ年長であるが、気質も沈着だし、老成しているといったふうで、こういう問題については、あまり意見を述べない。

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