かえって、余計なうわさの種をまいてしまったかもしれないのに」
そう思うだけでも、胸が張り裂けそうにつらかった。
そして、その心配はやはり現実のものとなってしまったのだ。
何事もないまま半月ほどが過ぎ、毎朝の野原にまっ白い霜がおりるような寒い季節となったある夜のこと。
兄の万三郎がやって来て、「お父上がお呼びだ」と言い、松尾をいっしょに父親の居間へと連れていった。
去年の春に母親が亡くなってからというもの、父親は家にいるときはいつも、亡き妻のために「千部経(せんぶきょう)」というお経を書き写すことを日課にしていた。
今日もそのお経を書いていたようで、ろうそくを立てる燭台の脇には、筆やすずり、紙などがのせられた経机が寄せられていた。
兄といっしょに、松尾がその場にきちんとうずくまると、父親はなんだか少し言いづらそうな、気まずい口調で話し始めた。
「親の口からこのようなことを言うのもどうかと思うのだが……。あまりにも世間のうわさがうるさいので、念のために尋ねる。おまえはこれまでに、多田淡路守の次男と、……何か、手紙のやり取りでもしたことがあるのか?」
松尾はびっくりして、思わず父親の顔を見上げた。
父親はまぶしそうに、濃い眉の下の目を細めながら、まるで痛いところにでも触れるような、探るような声の調子で話を続けた。
「母親であれば息子の様子もよく分かるものだが、父親というものは娘のことはなかなか見きわめられないものだ。おまえには、すべてを打ち明けて相談できる母親がいない。だからこそ、いろいろと思い悩んで途方に暮れるようなこともあるだろう。もしも、そうした事情から何か不しだらなことが起きてしまったのだとしたら、その責任の半分は父親であるわしが負うべきものだ。おまえ一人だけを責めようとは思わない。ただ、父親として、正直なことが聞きたいのだ……。さあ、正直に言いなさい」
松尾はおとなしく、父親の言葉を最後までじっと聞いていたが、話し終わると静かに顔をあげた。
「どのようなうわさをお聞きになられたのかは分かりませんが、わたくしには、そのようなことは少しもございません」
「本当か? 間違いはないのだな? この場しのぎの言い繕いではないのだろうか?」
「決してそのようなことはございません。ただ……、もしかすると、あらぬうわさが立ってしまったかもしれないと、心当たりヌはございました」
「ほう、それについて詳しく話してごらん」
松尾は、いつぞや隠居曲輪で起きた出来事を、はじめから終わりまでありのままに語った。
すると、それまで黙って聞いていた兄の万三郎が、「ばかなことを言ったものだ!」と腹立たしげな口調で言った。
「どうしてまた、ほかならぬ多田の陰口にかぎって、そんなふうにかばったり注意したりしたんだ! ほかの者ならともかく、多田新蔵がどういう男かということは、世間の評判ですでに決まりきっているんだぞ。それをあんなふうにかばい立てしたりすれば、変なうわさが広がってしまうのは分かりきっていることじゃないか!」
「はい……、本当に軽はずみでございました。これからはきっと気をつけます」
おとなしく頭を低く下げた松尾だったが、しかしすぐに父親の顔をまっすぐにふり仰いで、
「父上さま……。改めて、お願いがございます」
と、意を決したように切り出した。
「松尾も、いつかはどこかへお嫁にまいるのでございましょうか……?」
あまりにも突然で予想外の問いかけに、父親はちょっと返答に困ってしまった。「それは言うまでもないが、どうして今そんなことを尋ねるのだ」
「もしお嫁に行くのでしたら、松尾は多田新蔵さまのところへまいりたいのです」
「ばかなことを言うな!」
兄の万三郎が、どなるように話を遮りました。
「いま変なうわさが立っている相手とそんなことになれば、うわさが本当だったと自分で証明するようなものじゃないか。ましてや多田新蔵などとは、もってのほかだ!」
「どうして多田さまではいけないのでしょうか」
「自分で考えてみろ! 多田がどんな人間かなんて、この府中じゅうで知らない者などいないぞ」
「松尾は知りません」
兄をかなり強いまなざしで見返しつつ、松尾は落ち着いた静かな声で言いました。
「たしかにうわさは聞いております。けれど、それはどこまでいっても人のうわさにすぎません。松尾は世間の評判や陰口よりも、その人自身のことを信じたいのです」
三
「世間のうわさというのは、根も葉もなしに広まるわけではない。おまえの言っていることは屁理屈でなければ、わざと反対の意見を立てているだけだ」
「兄上さまは、松尾をそんなふうに意地を張る女だと思われるのですか」
「もうよい、松尾」
父親がなだめるように制止しました。
「おまえらしくもない。兄に口ごたえなどして、いったいどうしたというのだ。万三郎もそこまでだ。この問題については父親として考えもあるが、今はそれを言うのは控えておこう。松尾はもう下がってよい」
松尾はぐっと唇を噛みしめながら、深くうなだれました。
万三郎は、妹のこめかみのあたりが真っ青になっているのに気づき、あきれたような顔で見守っていました。
それから四、五日ほど過ぎたある日、父親がふと松尾の部屋を訪れました。
いつになく改まった様子で、娘の目をじっと見つめながら言いました。
「先日はあのように言ったが、おまえは本当に、多田の次男のところに嫁ぐ気があるのか」
松尾は目を伏せませんでした。
「はい、本当にまいりたいと思っております」
「あいつの評判はよく分かうえでのことだな? 変なうわさを立てられたからといって、意地になって言っているわけではないのだな?」
「そのようなことは決してございません」
「では尋ねるが、どうして特に多田を望むのか」
「それは、……」
言いかけて、松尾はちょっと言葉を切りました。
そして、自分の本当の心の底にある思いを正確に伝えようとするかのように、一言ずつはっきりと、けれど少し慎重な口調で答えました。
「えらそうに理屈を言うよう聞こえるかもしれませんが、わたくしには、多田さまは世間の評判とはまったく違う方のように思えてならないのです。戦に七たびも出陣しながら、敵の総大将の首をひとつも取ったという手柄をお立てにならない。それはあの方お一人だけではないはずです。ほかにもそういう武将はいらっしゃるはずなのに、多田さまに限ってそれが悪い評判として取り沙汰されるのは、どこかにお人の柄が並外れたところ、尋常ならぬものがあるからではないでしょうか。本当は、世間の凡庸な目にはそのすごさが届いていないだけなのではないか……わたくしには、どうしてもそう思えてならないのです」
「それだけの根拠で自分の人生の一生を託そうというのは、少し確かさにかけて危ういように思えるが」
「そうでございましょうか」
松尾は微笑みさえ浮かべながら言いました。
「わたくしは、これから行くお方の値打ちよりも、むしろ自分自身にその結婚にふさわしい値打ちがあるかどうかを心配しているのですけれど」
「それはたしかだな」と、父親も笑いました。
そして、本当にそこまで望むなら自分にも少し考えがあるから、縁談をまとめてみようと言って立ち去っていきました。
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