初級翻訳・石ころ 第1話

山本 周五郎

一

「ああ、高坂の権之丞さまがお通りなさるわ。また裏打の大きな家紋のついた大口(袴)を召していらっしゃる。あの方のは大紋がうつしてあって、いつもお洒落にお作りになっているけれど、お肌が白くてほっそりしていらっしゃるから、よけいに華奢(きゃしゃ)に見えること!」
「お伴をしていらっしゃるのは、三枝勘解由(かげゆ)さまの次男の方だわ。お名前はなんとおっしゃったかしら?」
「それは、紀久(きく)さまならご存じでいらっしゃるでしょう」
「まあ、いやだわ! わたくしそんなこと存じ上げませんわよ。それよりご覧になって、小山田さまの老い支度が、下腹巻(したはらまき)なんかしちゃって威張っていらっしゃるわ」
「まあ、お髪や眉のあたりまですっかり白くなっちゃって……」

 秋の日の夕暮れ近く、ぽかぽかと暖かい日の光が射し込む隠居曲輪(ぐるわ)の繩屋(なわや)の縁側に座って、十人あまりの若い娘たちが、さっきから楽しそうにかしましく囁き合っていた。
すでに葉がすっかり散ってしまった桜の木のすき間から、お堀をはさんで向こう側の道を、お城から引き揚げてくる武士たちが連れだって歩いていくのが見える。
娘たちは今、その人たちを指さしながら、い2た若い娘らしく、それぞれ勝手気ままに品定めをして盛り上がっていたのだ。

そんな仲間から少し離れて、松尾(まつお)はひとり、せっせと草鞋(わらじ)を編んでいた。
甲斐の国にある古府城(こふじょう)では、家柄のしっかりした武家の娘たちが選ばれて、交代でお城に上がり、草鞋を作ったり蓆(むしろ)を編んだりする決まりがあったのだ。
古い言い伝えによると、それは「信玄公の隠し草鞋」と呼ばれ、作り方に特別な秘密があって、雪の中を行軍するときでも、その足跡によって軍の進む方向を敵に気づかれないように作られている――だからこそ、家柄の正しい娘たちだけが選ばれて作るのだ、ということだった。
たとえそれが本当だとしても、年頃の娘たちに武士の草鞋を作らせたり、軍用の蓆を編ませたりすることは、武家の女性としての心身を鍛えるための大切な修練という意味だったにちがいない。
そしてそれはまた、娘たちにとっても楽しみのひとつだった。

なぜなら、武家の深窓(しんそう)におだやかに育てられて、ふだんは広い世間に触れる機会が全くないものだからこそ、同じ年頃の仲間が集まって、見聞きしたことや経験したあれこれを語り合うことで、世の中の移り変わりを知ることができたからだ。
それに、少しばかり行儀は悪いけれど、そこからはお城に登ったり下がったりする武士たちの往来がよく見える。「いつの合戦でこれこれの手柄をたてたのは、あの若武者だ」「どこそこの陣で敵の総大将の首をあげたのはあの方だ」などと、思い思いに噂や評判を話し合うことも、多感な娘ごころにはひそかな喜びのひとつだったのだ。

……しかし、そうした賑わいの中で、松尾だけはいつも仲間はずれだった。
どんなおしゃべりの輪にも加わらず、ひとりでくもくと仕事に没頭していた。
もともとそういう賑やかなことが苦手な性格だったのだが、何といっても顔立ちが人一倍美しかったことと、父親である秋山伯耆守(ほうきのかみ)が侍大将として武田勝頼(かつより)公のとても可愛がられている側近だったものだから、まわりの娘たちからは「高慢チキに見える」と誤解されていた。

「だって、お父上さまのご威勢が高いから……」
「自分の美しさを自慢していらっしゃるんだわ……」
そんな陰口がときどき耳に入ってきたけれど、松尾はそれさえも聞こえないふりをした。もう、そんな陰口にはすっかり慣れていたからだ。

「あら、今あそこを通っていらっしゃるのは、多田さまではありませんこと? ご自分で馬の口を引いていらっしゃるわ……」
娘のひとりがそう言ったのを聞いて、松尾は思わず胸がどきっとした。
「ああ、本当だわ、多田さまだわ! いったいどうされたのかしら、馬の口を取る従者が後ろにいるのに、ご自分で引いていらっしゃるなんて」
「だって、あの多田さまだものねぇ」
「戦場で、敵の兜首(かぶとくび)の代わりに、あちこちから石を拾ってくるような変った方ですものね!」
そう言って、みんなでおもしろそうにクスクスと笑い出した。

それは決して悪意から出たものではなかった。けれど、その陰口を面白おかしくしようとする、必要以上の大げささが感じられた。
松尾は、まるで自分自身が笑い物にされているような、恥ずかしさと悔しさがこみ上げてきて、自分でも気づかないうちに頬を真っ赤に染めながら言った。
「おやめになって! よく知りもしない方たちのことを、そんな風に悪く言うものではありませんわ」
言い終えてから、自分でも驚くほどの激しい口調だった。

娘たちは、松尾のポッと赤くなった頬や、涙をためた美しい瞳を見てびっくりしてしまった。
そして、自分たちの軽はずみな行動を反省するどころか、急に新しい興味をかき立てられたような様子で、顔を見合わせながらひそひそと言い合った。
「悪口なんかじゃないわよぅ」
「だって、わたしたちは世間でみんなが言っていることを口にしただけだもの。誰だってそう言ってるわよ」
「でも……」
松尾はそう言いかけたが、娘たちの好奇心のこもった視線が一斉に自分に向かってくるのを見ると、もうこれ以上何を言っても無駄だと感じて、ぐっと口ををつぐんでしまった。
そして、お城を下りるまで、つい余計なことを口走ってしまった自分の軽率さを、ずっと後悔しつづけたのだった。

二

けれども、そのとき松尾が「言わなくてもいいこと」を口走ったのは、決してただの偶然ではなかった。
多田という若い武士の噂は、これまで数え切れないほど何度も耳にしていたのだ。

……その男は、多田淡路守(あわじのかみ)の次男で、名を新蔵(しんぞう)という。二十五歳になる今日まで、前後の合戦に七度も出陣しているというのに、一番乗りや一番槍といった華々しい手柄はさておき、敵の首ひとつ取ったことがないという。行動がのろくて機転がきかず、自分の名前を名乗ることもはっきりできない。
そういうたぐいの、どちらかというと馬鹿にするような評判ばかりだった。
松尾はその人のことをよく知らず、そのうわさのどこまでが本当なのかもわからなかったけれど、自分自身の境遇とくらべては、いつも心の中でひそかに同情せずにはいられなかった。
――父親がえらい権力者だからといって、おごり高ぶっている。
――自分の顔立ちの美しさを自慢にして、まわりの人を見下している。
自分に向けられるそんな陰口は、本当の自分とはまったく関係のないところで勝手にうわさされるものだ。そのうわさを聞くときの悲しくつらい気持ちが、そのまま多田新蔵の姿に重なって感じられ、「人はうわさや評判だけで判断してはいけないんだ」と、松尾はいつも身にしみて考えさせられていたのだ。
だからこそ、あのとき思わず口から言葉が飛び出してしまったのである。
「でも、やっぱり言わなければよかった」
その日の夜、自分の部屋へ帰ってから、松尾は改めて自分の言葉を深く反省した。
「口で言ってすぐに分かるようなことじゃなかったわ。

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