手前の部屋には、仕事用の大きな机と椅子がいくつか置いてあります――その机の側に立って、こちらに背中を向けて、一人の男の人がなにかをしていました。
――お兄ちゃんだわ!
まちがいなくお兄ちゃんだと信じきっていたみどりは、いきなりうしろから駆け寄って、
「お兄さま、こんばんは……!」
と元気いっぱいに叫びました。
突然のことにびっくりした相手の男の人は、
「あっ!」
と叫びながら、パッと振り返りました。
――しかし、驚いたことに、それはお兄ちゃんなんじゃありませんでした。
まったく見たこともない、知らない男の人だったのです! みどりは心臓が飛び出るほどびっくりして、二、三歩うしろへ下がり、
「まあ、人違いでした! すみませんでした、あたし……」
とあわてて謝ろうとしたその瞬間、相手の男の人は恐ろしい顔で歯をむき出しにすると、いきなりドアの出口のほうへ、鳥が飛ぶようなすさまじい勢いで飛びつきました。
そして、カチッとスイッチの音がしたと思った次の瞬間、部屋中の電灯がパッと消えて、あたりは真っ暗闇になってしまいました!
――これらはすべて、ほんの一瞬の出来事でした。
「きゃっ、あっ……!」
暗闇の中から、みどりの悲鳴が聞こえ、それから、激しくもみ合うようなあやしい気配がしました。
でも、それはすぐに静かになって――やがて、部屋のどこかの隅の方から、コトンと金属がしっかりとかみ合うような小さな物音がして……それきり、まるで誰もいなくなったかのように、シーンと静まり返ってしまいました。
伊藤豊治(いとうとよじ)お兄さんが、鹿谷博士といっしょにホテルに帰ってきたのは、それから一時間ほどたってからのことでした。
――豊治お兄さんは、夕食の前に「仙台から帰る」という博士の電報を受け取ったので、上野駅までお迎えに行っていたのです。
だから、留守の間にそんな恐ろしい事件が起きていたなんて、知るよしもありませんでした。
「君の部屋は何号室だったかね?」
「ウイングの六号室です」
「ほうほう、――では、昨日の夜はなにかがあっただろうね」
博士は眉をしかめながら尋ねました。
「先生、もしかしてご存じなんですか?」
「うん、実は私も最初あの部屋に通されたんだよ。なんだか一番静かそうだったから、あの部屋がいいと希望したのだがね。でも、前の部屋に幽霊が出るというのでちょっと怖くなって、別の部屋に移ったのさ」
「先生ほどの方でも、幽霊なんて怖がるんですか?」
「君だって、怖くないわけがないだろう――だがね、とにかく、そのことについて少し気になっていることがあるんだ。まあ……あとで私の部屋へ来たまえ」
二階の階段で、二人は別れました。
伊藤豊治は三階へ上がり、ドアの鍵を(それはいつの間にか、ちゃんと閉まっていました)開けて中に入り、電灯をつけました。
――そして、部屋を温めるために暖房器具の栓をひねったとき、机の上の電話がジリジリとけたたましく鳴り出したのです。
受話器を取ってみると、牛込(うしごめ)のお母さんからでした。
「もしもし、豊治かい?」
「あ、お母さんですか」
「東京に行ったんだってね。用事がすんだら、牛込の家にも顔を出しおくれよ」
「はい、一週間ほどしたら伺いますよ」
「待っているからね。
それから、みどりはまだそっちにいるかい? あまりにも帰りが遅いから、どうしたのかと思ってさ」
「えっ、ドーリーがそちらを出たんですか?」
「まだそっちに行っていないのかい?」
「いいえ、――もっとも、さっきまでこの部屋を留守にしていたんですが……ちょっとホテルの帳場(フロント)に聞いてみますね」
そう言って、伊藤お兄さんは呼び鈴をピンポーンと押しました。
深夜の探検
「ふーむ……」
博士はぐっと眉を寄せました。
「お母さんの話では、新しいシャツや下着を持たせて、そっちへ向かわせたそうだよ。
片町の村上という友達の家に問い合わせたら、六時ごろにはそこの家を出たそうだから、どんなに遅くても、もうとっくに着いているはずなんだがねえ」
「帳場(フロント)では、なんて言っていたんですか?」
「そのときはちょうどみんな夕食の時間中で、受付には若いボーイが一人だけいたそうなんだが、そのボーイももう仕事が終わって帰ってしまったらしくて、よくわからないそうなんだ。
――でも、もしみどりちゃんがホテルに来ていたなら、着替えの入った包みをフロントに預けるか何かするはずなのだが……」
博士はだまって、何かを深く考えていました。
白髪交じりの眉毛がひどく険しくなり、おでこには深いしわが寄っています。
「ふむ、ふむ、なるほど……」
十分ほどもずっと考え込んでいたのち、博士は急に眉をのばして、ポツリとつぶやきました。「先生、僕ちょっと家へ帰って来たいと思うのですが、妹の身上がどうも心配で」
「まあ待ち給え」
博士は椅子から立って、西側の窓の鎧戸(よろいど)をがらがらと開けた。
――外は初冬の寒い風で、高台の街々はもう大方は灯が消えている。
しかしホテルの建っている場所から、谷を隔てたところにある第×聯隊(れんたい)のモダンな営舎(えいしゃ)だけは、支那事変のための夜間訓練でもあるのか、まだ明かりが美しくきらめいていた。
――博士はしばらく外の冷たい空気を吸ったあと、再び鎧戸を下ろして戻ってきた。
「君はねえ伊藤、――今度の僕の研究が、軍事上の秘密に関わるものだということを、知ってはいないだろうね」
「存じません。
ただ厳重な秘密の研究だということだけは伺いましたから、こちらへ来ても誰にも知らせなかったのです。
しかし――ゆうべこのホテルに着いた時、ロビーで妹の友達に見つかったそうで、それで妹が」
「いやいや、僕はそれを責めているんじゃない。むしろ妹さんの行方不明になったことが、僕のためには重大な役に立ったことを感謝したいくらいなんだ」
「――と、おっしゃいますと」
「妹さんは必ず無事に帰るよ」
博士の言葉に、伊藤青年はびっくりした。
「それは本当ですか、先生」
「科学者は根拠のないことは言わないさ、――だから安心して僕のすることを見てい給え」
博士はそう言って時計を見た。
「まだ九時前だね。
よろしい、――君はおうちへ電話をかけて、妹さんはこちらに泊まることになったと知らせてあげるんだ。
お母さんに心配をかけるといけないからな。それが済んだら、ゆっくり寝ていいよ」
「それで妹のことは……?」
「僕が引き受けたと言っているじゃないか。それより君は、亡霊に食われない用心でもするが(・)い(・)い(・)。
――じゃあおやすみ」
なにかわけのありそうな博士の様子を見て、伊藤青年はともかく言われた通り自分の部屋へ戻った。
母親に嘘の電話をかけて置いて、ベッドに入ったが、なかなか眠れるはずはない。
――妹は一体どうしたのか、どんな大変なことがあったのか。それも何より気がかりであるし、またゆうべ聞いた向こうの部屋の亡霊の声も、妙に頭に引っかかってくる。
――なんだか嫌なことばかり続く。
次から次へとあれこれ考えているうちに、それでも朝からの疲れに負けたとみえて、いつかうとうとと眠り始めた。
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