初級翻訳・山彦乙女 第44話

山彦乙女

手も足も、ちぎれそうなくらいに疲れ切っていた。

激しく息をきらし、胸が締め付けられるような心臓の鼓動に苦しみながら、半之助はまもなく、その急な坂道を登り切った。

すると、いきなり目の前に、雪の宮殿のような景色が現れた。

登り切ったその場所は、もちろん山のてっぺんではなかった。

あとから分かったことだが、そこは甘利山の頂上へと続く尾根の、ちょうどくびれた場所(鞍部)だった。

そこに立つと、月はまだ高いところにあった。

右側は奥の山のなだらかな斜面で、下の方はすっぽりと雲に隠れている。

目の前には山並みがかなり近くまで迫っていて、その中に(おそらく月明かりのせいだろう)青白く、きらきらと光るような感じで、三角形の堂々とした峰が見えていた。

「――あれが薬師岳(あるいは法王)だな」

半之助はそう小さくつぶやいた。

花世が、月夜にはまるで雪の宮殿のように見えると言っていたのは、きっとあの山にちがいない。

石英でできた岩が多いのか、ちぎれた雲が月を隠しても、あそこだけはかなりはっきり、ほの白く見えていた。

だがもちろん、そんな景色をのぼんやり眺めているような余裕も、時間も、少しもなかった。

どこか後ろの、少し右側に寄った下の方で、崩れた岩がガラガラと転がり落ちる音がし、何かに驚いて、鳥たちがばたばたと飛び立つ羽音が聞こえた。

彼はまだ激しく息を整えながら、追ってくる連中の足音がする方向へ、ぐっと耳をすませた。

空気は冷たく、まるでガラス細工のように澄みきっていて、吸い込むと鼻や喉の奥がヒリヒリと痛み、吐き出す息は真っ白に凍った。

――まちがいない、やつらだ。

彼は体を低くかがめて、走り出した。

それは、なだらかな上り坂となって、甘利山の頂上へと続いていた。

この尾根を左へ(今は雲に隠れて見えないが)下っていけば、彼が普段住んでいる、岩穴のある谷間に出るはずだった。

――そこへ行くのはまずい。

もしあっちへ逃げ込んで、こんなボロボロの状態のときに、連中に岩穴を見つかってしまったら、もうこの山にはいられなくなってしまうだろう。

彼はぴたっと足を止めた。

そしてすぐに、そこから斜面を左側へ下り、岩場を這うようにして、逆に元のほうへと引き返した。

追手が来たら、やり過ごすつもりで……。岩の一つに足をかけ、じっと物音に気を配りながら、次の岩へと移る――そんな動きを何度も繰り返した。

いつの間にか、大粒の霧が立ち込めてきて、あっという間に岩が濡れはじめた。

そのせいで、ふっと足が滑ってしまった。

慌てて岩にしがみつこうとしたが、崩れやすい岩の急斜面で、彼はそのままズズズッと滑り落ちてしまい、足先が何かに触れたと思った瞬間、体が横向きになり、真っ暗な穴のような場所へと、岩くずと一緒に転げ落ちていった。

下まで落ちて止まると、しばらくはそのままの姿勢で倒れ込んでいた。

ガラガラと少し遅れて岩の破片が落ちてきたが、その反響する音で、ここが洞窟の中なのだと気がついた。

彼はやがて、おそるおそる体を起こした。

どこもけがはしていないようだ。

自分が落ちてきた上のほうを見上げてみたが、光は一切見えず、物音もまったく聞こえない。

あたりは墨を塗ったような真っ暗闇で、どうなっているのか見当もつかなかった。

しばらくじっと様子をうかがってから、彼は懐から火打ち袋を取り出した。

三

あらかじめ用意してきた小さな蝋燭に、火をともした。

湿気がなくてよく乾いた空気の中に、今崩れてきたばかりの岩の細かい粉が舞い散っていて、蝋燭のまわりに丸く光の輪を作り出していた。その細かなほこりにむせんで、彼が思わず激しくせき込むと、そのせき声が岩の壁にぶつかり、遠くまで長く尾を引きながら響き渡った。
高さは八尺(約2メートル40センチ)、横は五尺(約1万50センチ)くらいだろうか、ほぼ同じ大きさのトンネルのような空間が、左右へずっと続いている。
どちらが入口なのか、はたして(いま落ちてきた穴のほかに)外へ出入りできる通路があるのかどうか、もちろん今の彼にはわからない。
「だいたいの見当では」彼はそっとつぶやいた、「そう、かんば沢からそんなに離れたところじゃないはずだ。少しわきにそれているか、あるいは上のほうに当たるくらいだろう」
崩れた岩くずのほこりが、だんだんと沈んできた。
やがて半之助は、崩れ落ちた岩の破片の山から、左のほうへと降りていった。
気圧が違うのか、それともあたりがあまりにも静まり返っているせいなのか、両方の耳がツンと圧迫されるように、変な音が鳴るのを覚えた。
二、三歩歩き出した彼は、急に左右の壁が明るくなったことに気づき、なんだろうと不思議に思いながら立ち止まった。
手にした蝋燭を高く掲げてみると、洞窟の天井や左右の壁が、眩しいほどに光を反射しているのであった。
――なんだ、ただ光っているだけか。
どこか外へ続く出口でもあるのかと期待していたので少しがっかりしたが、さらに十歩ほど進むと、足もとに誰かが倒れているのを見つけた。
びっくりして「あっ」と危うく叫び声をあげかけ、思わず逃げ出そうとした。
しかし、ピクリとも動く気配がないので、今度は慎重に、おそるおそる近づいてみた。
それは人間の死体だった。
こちらへ頭を向けた状態で仰向けに倒れ、片方の腕をぐっと伸ばし、右手で自分の胸をきつく掴んでいた。
片方の足が不自然に変な方向へねじれ、頭の半分はひどく砕けていた。
死の苦しみが、そのままの形で生々しく残っているようなありさまだった。
それはかなり古い死体のようだった。
着物はボロボロになり、砕けた頭から流れ出た血も、すっかり乾ききっていた。
「いったいどういう人間なんだろう……」
半之助はひとりごとをつぶやいた。
なんだか異様な匂いがするような気がした。
実際には何も匂っていなかったのだが、なぜか胸が悪くなってきた。
そこで、死体をよけて通り抜けようとしたところ、ねじれた足のそばに、かなり大きな革袋がぽんと投げ出されているのを見つけた。その袋から、何かキラキラと光るものがこぼれ落ちて、あたりにちらばっていた。
彼は蝋燭をそちらへと近づけてみた。
ちらばっているのは、透明なものや不透明なものなど、三種類ほどの、宝石のような石だった。
そういったものに詳しくない彼には名前はわからなかったが、一番大きな一つは、どう見ても紫水晶(アメシスト)だった。
彼はその革袋を取ろうとして、ふと死体の顔に目をやった。
他人の持ち物に触るようで気が引けたが、見た瞬間にぞっと背筋が凍った。
そのとき彼は死体の足のほうにいたのだが、そこから見上げると、死体の顔が(苦痛に顔をゆがめたまま)まるでまだ生きているかのように思えたのだ。
彼は思わず目をそらそうとした。
だが、次の瞬間、今度こそ思わず高い叫び声をあげてしまった。
彼がぞっとしたのは、死体の顔が生きているように見えたからではなかった。
誰かに似ていたからだ。
彼がよく知っていて、しかも、絶対に忘れることのできない、ある人物の顔に……。
それは、叔父にそっくりだった。

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