初級翻訳・山彦乙女 第43話

山彦乙女

そのとき、松のたいまつを持った武者たちが林の中に追い込んできて、大声で何かおっかないことを叫びました。
すると、あの不気味なヒューストンといううなり声をあげて、彼の左右へと、次から次へ矢が飛んできたのです。
斜面の傾斜はとても急で、若い木がたくさん生い茂っていました。
土は柔らかくて、落ち葉がフカフカと積もっているので、油断するとすぐに足が滑ってしまいます。
しかも、あせっているので、音を立てずに登るなんてとても無理な話でした。
山の民である彼らは、そういう音にすごく敏感で、半之助がどこにいるのかすぐに聞きとったのでしょう。飛んでくる矢の道をよけながら、右と左から、松のたいまつを持った五、六人の男たちが、どんどん追い詰めてきました。
――もう逃げられない。
彼はそう思いました。
おとなしく捕まったほうがいいのかもしれない……。
でも、あの舞台の上での、(登世の)怒りで引きつった顔と、狂ったような叫び声が、そうやって観念する気持ちを鈍らせました。
――だめだ、逃げるしかないんだ。捕まったらそこで終わりだ。
彼は必死になって、木から木へと飛び移り、暗い茂みのあるほうへ、そして上へ、上へと、夢中で登り続けました。
しばらくすると、矢は飛んでこなくなりました。
怒鳴り声も、かなり後ろのほうへ引き離すことができました。
だけど半之助は、後ろを振り返る余裕なんて少しもありませんでした。
手も足も(いや頭のてっぺんまで)落ち葉と土まみれになりながら、さらに二段も三段も、息もつかずに登っていきました。
――綱吉が死んだ。
――誰かが失脚した。
彼はそのニュースを、初めて耳にしました。
誰か、というのは、あの柳沢吉保のことを指しているのだろうと思いました。
そう考えると、これまでバラバラに体験してきたいろんな出来事が、ようやく一つの点に、ピタッとまとまっていくような気がしました。
築地の丸茂は、みどう家の、(おそらくお姉さんに違いない)彼女が経営していたものなのだろう。
そこに集まってきた、幕府の柳沢グループの偉い人たち。
そこで話し合われた重大な問題。
柳沢の権力を守ろうとする動きと、またその動きを利用して、まるで夢みたいな――武田家をもう一度復活させるだなんていう――無茶苦茶で、何かに取り憑かれたような野望。
そして、それに対抗する、甲府の殿様・綱豊を中心とした新しい勢力。
そういうものが、今目の前ではっきりと、つながり合って見えてくるような気がしました。
――波が寄せては、また波が引いていく。
何百年も何千年も昔から、ずっと繰り返されてきて、今も、そしてこれからの何百年もの先だって、同じように繰り返し、繰り返し……。
――まっぴらごめんだ。
半之助はぶんぶん頭を振りました。
――そんなの、おれは願い下げだ。
斜面が、急にどん詰まりの崖につき当たりました。
そこで、彼は初めて後ろを振り返りました。
空にはいつの間にか雲が切れて、すっかり西の方へまわった月が、下に見える森の木々を、ぼんやりと照らし出していました。
そのせいで、かえって追っ手のたいまつの光は見えなくなっていて、遠くの方でかすかに、人々の叫び声が、間の抜けたこだまを返しているだけでした。
崖に沿って右へ回ると、林を抜けて、若い草やゴロゴロした岩だらけの、もっと急な斜面に出ました。
彼はその岩にしがみつきながら、なおも上へ、上へと登っていきました。
――幕府の手先っていうのは、本当なのだろうか。
あのとき、弓で射られたのはいったいどんな男たちだったんだろう……それに、あの弓矢。
半之助はちょっと息を整えようと、大きく突き出た岩の陰で立ち止まりました。そのときふと、築地の丸茂の庭で、一羽の白鷺をピタリと射落としたあの弓の達人のことを思い出しました。
「――たしか、菱屋なんとかっていう名前だったが……」
彼は額の汗をぬぐいました。
二

半之助は再び登り始めました。
息はまだゼーゼーと苦しく、もう少しゆっくり休みたかったのですが、下のほうで(ちょうどさっき彼がまわってきた崖のあたりから)人が近づいてくる気配がしたからです。
月はちょうど正面の山の上にありました。
これから登っていく山のてっぺんの線に、もう少しで隠れようとしていました。
まわりはかなり明るいのですが、逆光になっているせいで、突き出た岩や、あちこちにまだらに生えている草や木の茂みが、まっ黒く浮かび上がっていました。
彼はその暗い影伝いに、まるで這うようにして登り続けました。
のどがカラカラに渇いていました。
唾を飲み込もうとしても、舌の奥がすっかりひっついてしまって、こらえきれずにゴホゴホと咳がこみあげてきました。
手のひらに、一掴みの青草がふれました。それは夜露でびっしょりと濡れていました。
彼はその小さな草に顔をぐっと近づけて、動物のようにガツガツと、夢中で露を吸い込みました。
――菱屋なんとか。
丸茂の庭を眺めながら、主馬(しゅめ)から聞いた名前です。
顔も見たことがないし、さっきの真っ暗闇の中で、正確に矢を射込んできた主が、果たしてその男なのかどうかはわかりません。だけど、もしそうだとしても、半之助にとってはちっとも不思議には思えませんでした。
――あの女がたくらんだことは、みんな失敗に終わった。柳沢吉保も、その偉いイスから追い出されたんだ。――あの女は、ここで最後のあがきをしようとしている。どんな人間が一緒にいたって、不思議じゃない。

彼はまた、草の露を吸い込んだ。

「あだし、あだ浪、よせては、返る浪」

思わず、そんな歌が口からこぼれ出た。

あさづまぶねの、あさましや、またあすの日は、誰に契りを、交わして、色を、色を交わして、枕はずかし、いつわりがちなる、わが床の山、よしそれとても世の中。

ひと頃、江戸中で大流行した、はやり唄だ。

柳沢吉保が、将軍を自分の屋敷に招いて、宴席に愛妻や娘を侍らせたという噂を風刺したものらしく、その作者である町絵師の英一蝶は、お上の怒りを買って流罪になってしまった。

「よせては、返す浪……」

またしても、意味のないことに振り回され、必死になって争い続ける人間の世の姿が、頭に浮かんできた。

――あの女の狂ったような目つき。

もし仮に、武田氏の天下が再び実現したとして、だから何だというのか。

柳沢一派にしても同じことだ。

やつらの悪だくみがうまくいき、甲府のお殿様を失脚させて、自分たちに都合の良い将軍を立てて、その権力をずっと握り続けることができたとして、一体そこにどれほどの意味があるというのだろう。

半之助は、ふと足を止めた。

すぐ目の前に大きな岩があり、そこから右へ、もう一つの岩との間に、細い通路のような隙間が見えた。

――伏岩(ふせいわ)。

まさか、そんなはずはないと思った。

しかし、今登っている尾根の左側の谷間は、「かんば沢」にあたるはずだ。

彼はどうすべきか迷った。

「とにかく、登り切ってからだ」

もうすぐそこに、山のてっぺんの線(稜線)が見えていた。

あそこへさえ出れば、見晴らしも良くなるし、追手がどちらから来るかによって、逃げる方向も自由に選べる。

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