初級翻訳・ちいさこべ 第10話

ちいさこべ

それじゃあ、お父さんやおっ母さんに対してあまりにひどいじゃないの」

おりつはまた前掛けで顔を覆い、肩を震わせて泣きじゃくりました。
茂次は頭を垂れ、しばらくおりつのすすり泣く声を聞いていました。
「これだけは黙っているつもりだったが、言っちまおう」やがて茂次が低い声で言いました。「おれが仏壇を閉めたままにしておくのは、おやじやおふくろを仏扱いしたくないからだ」
おりつの嗚咽が止まりました。

「ばかげた子供っぽい考え方かもしれないが、おれにはどうしても、おやじやおふくろが死んだものとは思えない。あそこに骨壺が二つあるからには、死んだことに間違いはないだろう。生きているとは思わないが、仏になってもらいたくはないんだ。おれが大留を立て直すまで、元のおやじとおふくろのままで、あそこからおれを見ていてもらいたいんだ。――こんなことは世間には通らないだろう。仏を粗末にすると言われるだろうが、誰に何と言われてもいい。おれはそのときがくるまで、決して二人を仏扱いにはしないつもりだ」

おりつは喉を詰まらせ、懸命に泣くのをこらえながら、「ごめんなさい」とよろめくように言いました。
「余計なことを言ってごめんなさい。あたし、何も知らなかったもんだから」
「わかればいいんだ」と茂次が遮りました。「しかし、これだけは決して誰にも言わないでくれ」
「ええ」おりつは頷き、前掛けで目を拭きながら言いました。「――でも、そういうわけだったら、何もお住職さんの悪口を言うことはなかったじゃありませんか」
「口の悪いのは生まれつきだ」と茂次はおりつを見て言いました。「殴ったりして悪かった。勘弁してくれ」

おりつは泣いて腫れぼったくなった目で彼に微笑み、それから言いました。「――これで二度目よ」

十二月に入ると、まず明神下の酒問屋の工事が終わり、続いて岩槻町のほうも仕上がりました。
その前に魚万の再建の話が伝わったためでしょう、工事の申し込みが次から次へと来ましたが、茂次は七軒長屋の五つ棟と、小島町の紙問屋、計二つの工事だけを引き受けました。
長屋のほうはすぐ近くの松枝町で「大留」の仕事ではないと、大六たちに反対されましたが、家がなくて困るのは長屋に住む人間だ、と茂次は突っぱねました。

明神下と岩槻町が終わるとすぐに、茂次は二百両を持って「福田屋」へ行き、借りた内金に入れてくれと言いました。
久兵衛は受け取りませんでした。
そう急ぐ必要はないし、返すなら五百両そろえて返してくれ、と久兵衛は言いました。
茂次は少し考えていましたが、預けていた看板の包みを出してもらい、その中へ二百両を包んで「このまま預かっておいてください」と言って渡しました。
「だが――」と久兵衛は不審そうに尋ねました。「当分はまだ金が必要じゃないのかい」
「気がゆるむといけないから」と茂次が言いました。「まあ、引き締めてやっていくつもりです」
そして、茂次は照れくさそうに立ち上がりました。

十一

大晦日と三が日を休んだだけで、「大留」には暮れも正月もないようでした。
吉川町の工事はできる限り人を集めてやりましたが、暮れいっぱいには仕上がらず、そのため茂次は元旦に休んだだけで、二日から正吉と松三を連れて工事現場へ通いました。
大六や助二郎たちは知らなかったでしょうが、左官屋や建具屋などの仕事で、自分たちに手伝えることは何でもやりました。
「この仕事が終わったら休みをやるからな」と茂次は二人に言いました。「せっかくの正月だが我慢してくれ」

くろは父親が病気だそうで、暮れの二十八日から本所にある自分の家へ帰っていました。
親の病気というのは口実で、もう「大留」へ戻るつもりはないらしいのです。
いつまでも一人前扱いをしてもらえないので、自分で手間取りでも始める気になったのでしょう。
茂次は「ばかな野郎だ」と言っただけでした。
二十日に「魚万」の工事が仕上がりました。
茂次は万兵衛から祝いの席へ招かれましたが、大六を代わりにやり、正吉と松三には七日間の休みを与えました。そしておりつに、おまえも芝居にでも行ってきたらどうだ、とすすめたが、おりつは相手にせず、棟梁こそ息抜きに出かけるがいいと言った。
「仕事に追われづめで、家にいづめでは体に障りますよ。気晴らしにどこかへ行ってらっしゃいな」
「年寄りみたいに言いあがる」と茂次は言った。「おれは家で寝正月だ」
それこそ年寄りみたいだ、とおりつは言ったが、顔にはそれを喜んでいる気持ちがあらわれていた。
――茂次は言ったとおり、まる二日家にこもっていた。
部屋に夜具を敷いたままで、食休みをするとすぐ横になり、合巻本を読んだり、眠ったりした。
二日目の夕方、うとうとしていると、戸口で高い人声がするので目を覚ました。
子供の泣き声もするし、男のしゃがれた太い声で、「盗人(ぬすっと)」と言うのも聞こえた。
茂次は起き上がり、平ぐけを締め直して出ていった。
入口の土間に男が三人、重吉はその一人に捕まえられて泣いており、おりつがしきりに謝っていた。
男の一人は二丁目の八百屋の徳二郎、一人は自身番の平助、一人は商人風の中年者で、これは知らない顔だった。
茂次はそこへ行って、どうしたんだ、とわけを訊いた。
重吉が八百徳の店先でみかんを取ったのだ、とおりつが答えた。
「私が証人です」と商人風の男が言った。「通りがかりに見ると、この子がみかんを盗んでいるものだから、私が捕まえたんですよ」
茂次は詫びを言った。
八百屋の徳二郎は茂次より一つ年上で二年前に嫁をもらい、もう女の子が一人いるが、小さい時はよく遊んだし、喧嘩もしたものである。
稼業が違うから親しい付き合いはないが、今でも会えば立ち話くらいはする間柄であった。
――だが茂次は今、言葉に折り目をつけて詫びた。
自分たちのしつけが行き届かなかった、もちろんみかんの代金は払うし、これからはよく気をつける。
そう謝っていると、徳二郎が遮った。
「棟梁のおめえに謝られてもしょうがない」と徳二郎は言った。「おめえの子というわけじゃあなし、それに一度や二度じゃないらしいんだ。こういうガキはたちが悪くていけねえから、おらはもう自身番に任せることにしたんだ」
茂次は平助に振り返って、「子供を放せ」と言った。
重吉を捕まえていた平助は、困ったように徳二郎を見た。
茂次はまた「放せ」と言い、平助が手を放すと、おりつに「あっちへ連れて行け」と言った。
重吉は泣きじゃくりをしながら、おりつといっしょに奥へ去り、上り框(あがりかまち)にみかんが二つ残った。
「いま誰か盗人って言ったな」と茂次は三人の顔を見比べた。「――誰だ」
平助が口の中で不明瞭になにかつぶやいた。
自分が言ったというのであろう、茂次は彼を無視して徳二郎を見た。
「おい徳さん、おめえいまこういうガキはたちが悪いと言ったが、子供はみんな同じことだぜ」と茂次はつかえつかえ言った。「おれだって小さい時は、火鉢の引き出しからおふくろの小銭をくすねたことがある。土手前にあった絵草紙屋の店で絵本を盗んだこともあった。大なり小なり、仲間はたいていやった。おめえだってそんな覚えが二度や三度ねえことはねえだろう。

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