――どのくらい眠っただろうか、ふと耳元で、
「――起き給え、伊藤……」
とささやく声にはっと目を覚ますと、鹿谷博士が暗闇の中に立っていて、
「音をさせぬように起きるんだ。
支度ができたらこれを持って……」
「――あ、拳銃ですね」
「しっ、黙ってついてき給え」
なにが始まるのだろう。急いで身支度をした伊藤豊治は、渡された拳銃を持って、博士のあとからそっと部屋を出た。
――すると、意外にも博士は、例の亡霊の部屋へ入っていくのである。
「先生、どうなさるのですか」
「亡霊を退治するのさ」
博士は暗闇の中でにやりと冷笑したようだった。
――その部屋はひどく埃(ほこり)臭かった。
もちろん電灯は消えていたが、両側の窓の鎧戸が下りていないので、ガラス窓から星空の光が入ってくるため、部屋の様子はぼんやりとながらもよく見ることができた。
「こちらへ来給え、静かに……」
博士は伊藤青年を北側の隅へ引っ張っていって、そこにある机の陰に身を隠した。
「黙って待つんだ。音をさせてはいけない。
亡霊は人のいる気配でも嫌うからな、――なるべく楽にして、僕が合図するまではどんなことがあっても動かないように」
博士は耳に口を寄せてささやいた。
この深夜、殺人の行われた部屋で、亡霊の現われるのを待つ――他人が見たらそれはまるで中世の冒険物語のような光景だと言うだろう。
だがいま伊藤豊治にとっては実に切迫した、実に現実的な気持ちだった。
正直のところ彼は、暗闇の中に息を殺していたその夜の数時間を思うとき、いまだに不快な、襲われるような恐怖を感じるくらいである。
――夜は更けていった。そして、やがて階下のロビーの時計が午前二時を打ち始めた。
二時を打った時計の余韻が、寝静まったホテルの廊下にたゆたいながら消えていった――そのときだった。静かな暗闇のどこからともなく、
「あああああ、ううううう」
という女のうめき声が聞こえてきた。
――それは悲しげな、息詰まるような、聞く者をぞっとさせる、死に瀕した者のうめきであった。
「――先生」
「黙って、黙って!」
博士は強く制止した。
伊藤青年は脇の下に冷や汗が流れるのを感じながら、ぎゅっと拳銃を握り締めていた。
――女のうめき声は低くなり、やがてまた高くなりつつ途切れ途切れに続いたと思うと……間もなく、東側の壁のあたりでカチリ、と低い音がした。それに続いて、床から七フィート(約二メートル)あまり上の壁に、ピカリ! ほんの微かな火花のようなものがきらめいた。
そして同時に、
ビリリリ、ビリリリリ。
という、まるで長い紙をそっと引き裂いているような、静かな低い物音がし始めた。すべては昨夜のままでした。――命が消えそうな女の悲しいうめき声、紙を引き裂くような不気味な音に、伊藤青年はまるで全身に水をぶっかけられたように、ぞっとしながら息を潜めました。
「そうか、――」
突然、博士が小声でつぶやきました。
「そうか、そういうことだったのか。――さすがのこの鹿谷も、そこまでは気がつかなかったぞ。ふふふふ」
「どうなされたのですポーツ、先生!」
「しーっ……誰か来る、――」
慌てて博士が制止した――その時です。いつどこから現れたのか、右側の暗闇の中に、白い布を頭からかぶった亡霊のようなものが、ぼんやりと幻のように浮かび上がってきたのです。
伊藤豊治は恐怖のあまり、自分を忘れて拳銃の引き金に指をかけました。
すると博士はその手首をぐいと強く掴み、「動くな!」と目で合図するように押さえつけました。
奇怪な亡霊の姿が闇の中に現れてから、だいたい二十分ほど経ったと思った頃――あの紙を引き裂くような音がピタリと止まりました。
――しかし、怪しい女のうめき声は、まるで最後の苦しみを訴えるようにまだ続いています。
亡霊は闇の中を滑るように、東側の壁の方へとゆらゆら歩いていきました。
――そこで何かをしているらしく、「カチリ」と音がして、しばらくすると今度はまた、滑るように右側の方へ去っていきました。
博士は机の陰から上半身を出して見送っていましたが……亡霊の姿は暖炉のところで、急にパッと消えるようになくなってしまったのです。
「待ちなさい、まだ早い」
飛び出そうとする伊藤青年を押さえながら、そのまま三十分ほど息を殺していた博士は、もう誰も来る様子はないと確かめると、静かに机の陰から立ち上がり、
「さあ、いよいよ虎穴(こけつ)に入らずんば虎児を得ず、だ!」
とささやきました。
「今度は場合によって、拳銃を使わなければならなくなるかもしれないぞ。
だが撃つにしても足を狙うんだぞ、絶対に足以外を撃ってはならない。――さあ、来るんだ」
博士は暖炉の前へと進みました。
亡霊が消えたのはそこです。――博士はしゃがみ込み、根気よく二十分もの間、暖炉のまわりを手でさわって探りました。するとやがて、指先が暖炉の棚の一角に触れたとたん、床が音もなくスライドして、大人一人が通り抜けられるほどの穴が、ぽっかりと口を開けたのです。
「わあ! こんなところに抜け穴が!」
「そうさ、こんな抜け穴を使うなんて、亡霊にしては不便極まりない話だがね。
だが、この建物は数年前からセントラルヒーティング(暖房器式)になっているから、この暖炉は絶対に使わない。だから秘密の通路にはもってこいの場所なのさ。――さあ、入るんだ」
「大丈夫でしょうか……」
「虎穴に入らずんば虎児を獲ず、さ!」
身をかがめるようにして、博士が先頭に立ってその抜け穴へと入っていきました。
――入り口は狭いものの、入ったところはハシゴの降り口になっていて、楽に立ったまま下に降りられるようになっていました。
二人は拳銃をしっかり握りしめたまま、静かに、一段一段足音を忍ばせながら下に降りていきました。
ハシゴを降りきったところに扉がありました。
博士は扉に耳をピタリと当ててしばらく様子をうかがったあと、そっと押し開けて中へ入りました。その瞬間、
「あっ、ドーリー!」
と伊藤青年が低く叫びながら、博士を押しのけて中へと飛び込みました。
――なんとそこには、妹のみどりが、狭い物置部屋の中で椅子にきつく縛りつけられたうえ、ひどいサルグツワを噛まされていたのです!
「待ちなさい!」
駆け寄ろうとする伊藤を、なぜか博士は急に押し止めました。
「まだ手に触れてはならん」
「だって先生、こんなに縛られているんですよ……!」
「いいから待ちなさい。妹さんにはかわいそうだが、あと数時間はこの痛みをがまんしてもらわなければならん。この事件は生やさしい問題ではないんだ。
国家の重大な機密に関わっているのだよ。――こう言えば、おそらくみどりさんも少しの間は苦しみをこらえてくれるはずだ」
椅子に縛られたままこれを聞いたみどりは、健気にも目をキラリと輝かせながら、力強くうなずいてみせたのです。
「みどりさんは分かってくれたよ。
さあ、ここからがもうひと仕事だ!」
博士はそう言うと、まだ名残惜しそうにしている伊藤青年を急かして、もとの部屋へと戻っていきました。
【見えざる間諜】
それから博士と伊藤青年がどんな大活躍をしたのかは分かりません。
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