「私のもので失礼しますけれど」
彼女はそう言って、黙ったまま、じっとこちらの様子を見つめていました。
「どうしたんだい?」
半之助がそう言って顔を向けると、おなには寂しげにふっと笑い、首を横に振りました。
小さな唇の間から、白い糸切歯がちらりと覗きました。
おなとは、その年の春芝居のシーズンから、このお茶屋で働き始めたばかりでした。
どこか影のある寂しげな顔立ちと、物静かな雰囲気が気に入っていました。他の女中のようにうるさくベラベラ喋らないところも良く、店に来るたびに彼女に用事を言いつけるようになっていたのです。
もっとも、半之助としては、それ以上の特別な感情を彼女に抱いているわけではありませんでした。ほかの女中たちが面白半分にあれこれと匂わせるような冷やかしを言うのも、もちろんこうした場所では決まり文句のようなものにすぎません。
「あっちへ戻らなくていいのかい? また『おそな』になんてからかわれるぞ」
「あの……わたくし、ちょっとご相談したいことがあるんですけれど」
そう言いかけたものの、半之助が黙ったままでいると、彼女は何かを言い淀むようにふうと小さく溜息をつきました。
「でも、それはまた次の機会にしますね。どうぞごゆっくりお休みなさいませ」
おなとはそう言って、静かに部屋を出ていきました。
このお座敷は、一階に五つ、二階に七つありました。芝居の最中は、桟敷席でみんな飲食をするため、こちらのお座敷にはめったにお客さんが来ませんでした。
お部屋の仕切りには、夏の季節ということで、襖の代わりに荻(おぎ)で作られた簾戸(すど)が入れてありました。お客さんがいるときは白い麻の布でできた帳を下ろすのですが、今は二つ向こうのお座敷まで、涼しげに向こう側が透けて見えていました。
「おい、夕立が来そうぜ」
建物の下、裏手のほうから男の声が聞こえてきました。
「今のうちに干し物をとりこんどかねえと、あとでまた騒ぎだぜ」
堀に面した窓から、さっと冷たい風がかなり強く吹き込んできたり、やがて遠くから雷の音も聞こえ始めました。
――雨が降り出す前にみんなが来てくれればいいけれど、いったい何をぐずぐずしているんだろう。
そんなことを思いながら、半之助はいつの間にかうとうとと眠りかけました。
劇場のほうからは、急ピッチのお囃子と、観客たちのざわめきが、幕間(まあい)を告げるかのように賑やかに聞こえてきました。
この時のお芝居は、二代目市川団十郎が主役を演じる曽我物の狂言で、大変な大当りとなっていました。月が変わっても連日大入りが続き、普通ならお休みになる季節であるにもかかわらず、この月いっぱいはそのまま続演されるということでした。
半之助がほとんど眠りかけたとき、誰かがやって来る気配がして、彼は目を覚ましました。
「やっと来たか」
彼はそうつぶやきましたが、それは仲間たちではなく、一つおいた向こうのお座敷に入ってきた別のお客さんたちの気配でした。
半之助はそのまま目を閉じていました。
しかし、まもなくして、その隣のお座敷のほうが何となく気になりだしたのです。
人が動いている気配や足音はするのですが、話し声がまったく聞こえないのです。
どうやら二、三人ほどの人間がいるらしいのですが。
しばらく経っても、話し声は何一つ聞こえず、なぜか忍び足のようにひそひそと出入りしている様子が、妙にものものしく耳につきました。
――いったい何者だろう。
半之助はそっと目を開けました。
頭をわざわざ持ち上げなくても、横になったままの状態で、隣の様子はすっきりと透けて見えました。
そして、そちらへパッと目を向けた瞬間、彼は思わず息をのみました。
そのお座敷の真ん中に、一人の若い女が、すっぽんぽんの裸のままで立っていたのです。
肌着も下着も、ほんのいま脱ぎ捨てたばかりのようでした。
浅黄色の、丈の短い肩衣と袴を身につけた屈強な若者たちが三人いて、一人は脱ぎ捨てられた衣服を片づけており、残りの二人は、漆塗りに金で定紋が描かれた「半桶(はんおけ)」の水に浸した手拭いを絞っていました。半之助の眼には彼らの姿はほとんど目に入らず、ただその女性のむき出しの裸身だけが、視界いっぱいを塞ぎ込んでいるかのように感じられました。
はじめのうちは、それはどこか現実離れした光景に見えました。
全体がぼんやりとした光の輪(光暈)に包まれたかのように、この世のものとは思えないほどの白さと、なめらかで重たげな肉感の丸みが、目を奪わずにはいられない幻の揺らめきのように映りました。そしてその直後には、生々しく鮮やかに、小さな肩と引き締まった胸元、そして際立って広い腰回りと太ももが、ぐっと彼の目を奪い去ったのです。
確かに、こちらから進んで見るというよりは、むしろ強制的に目を奪われてしまった、という感覚でした。
この間に、二人の若者(どちらも若衆という言葉がぴったりの美男でした)が、手拭いを絞っては彼女の肌の汗をぬぐっていました。
全身を残すところなく、手慣れた巧みな手つきで拭いていたのですが、半之助にはその若者たちの姿はほとんど目に入っていませんでした。むしろ、その行為がかえって、むき出しの裸身をいいっそう生々しく際立たせているようにさえ感じられたのです。
汗を拭き終えると、若者たちはその女主人に新しい着物を着せました。
そのとき、ふいに激しい雷鳴が襲いかかってきました。
真っ白な稲妻が横向きにピカリとひらめき、同時にパリパリと耳をつんざくような激しい音が鳴り響き渡りました。
若者たちのうち一人が畳の上に思わず伏せ込み、残りの二人が飛び上がるのを、半之助は目撃しました。
しかし、女は平然とした顔でただ立っていました。
片手で着物の袂(たもと)を抱え、もう片方の手を帯の上に置き、そして、その顔をゆっくりとこちらへ向けたのです。
女は、半之助の存在に気づいたようでした。
半之助は息が詰まるような思いがしました。
女の顔立ちは、単に美しいというだけでなく、どこか底知れぬ悪徳を思わせるような、妖艶な美しさでした。
それは丸顔とも面長ともどちらともつかない形をしていました。
上唇のわきにかなり大きなほくろがあることと、極めて強い個性を放つ両のひとみ(彼はかつて人生で一度もあんな目を見たことがありませんでした)――その二つの特徴が、半之助の目に深く焼き付けられたのです。
お座敷の中は、夕暮れ時のように暗くなっていました。
稲妻が白く、そして青くきらめき、走り抜け、雷鳴は建物全体をガタガタと震わせ、揺さぶるかのようでした。
三
ふと気がつくと、女の姿はもうそこにはありませんでした。
半之助はまるで何かに魅入られたかのように、誰もいなくなったお座敷のひとところをじっと見つめ続けていました。
そこには、漆塗りの半桶が、先ほどの出来事がまぎれもない事実であったことを証明するかのように、ぽつんと置き残されていました。
彼の目は、その半桶に描かれた、金蒔絵の定紋にぐっと吸い寄せられていました。
簾戸越しなのではっきりとまでは分かりませんが、何かの鳥が翼を広げたような、あるいは菱形をいくつも集めたような、非常に珍しい紋でした。
――どこかで見覚えがあるぞ。
コメント