初級翻訳・山彦乙女 第6話

山彦乙女

そもそも僕のことを覚えていらっしゃらなかったんでしょう」
「――そんなことないさ」
「そんなことって、僕はそう思うんですからね」
愛想よく微笑んではいましたが、その笑顔には明らかに棘(トゲ)が含まれていました。
――ああ、あの笑い方だ。
半之助はその瞬間、再び胸が大きく跳ね上がりました。
優しげに見えて、実は皮肉に満ちており、人を心の底から嘲(あざけ)るようなあの微笑み。
それは、千之助にとっては父親であり、半之助にとっては叔父にあたる人物――約十年前に、神場沢(かんばさわ)で謎の失踪を遂げた「兵庫(ひょうご)」その人の笑顔に、不気味なほどそっくりだったのです。
――だが、そんなはずはない。
半之助はそう自分に言い聞かせ、(挑発的な相手の態度にはあえて乗らずに)「五番町のみんなは元気かい?」と話題をそらそうとしました。
しかし、千之助はその質問には答えませんでした。
何かをあざ笑うように真っ白な歯をちらりと見せると、
「またあとでお目にかかります」
そう言い残して、向こうへ去っていきました。
「なんだあいつは! あんなにずけずけと物を言うなんて、失礼な奴だな」
重兵衛が舌打ちをしました。
半之助は急に気が重くなりました。
若い従弟(いとこ)の突っかかってくるような態度や、歪んだ、毒のある笑い方の中に、何やら不吉な出来事の予兆のようなものを感じてしまったからです。
――馬鹿馬鹿しい、そんなことがあるわけないじゃないか。
そう頭の中で否定してみても、その暗く不快な感覚は、まるで冷たい水が染み込むように、半之助の全身へとじわじわ広がっていったのでした。
やがて、母親が呼びに来ました。
本堂へと移動して施主の席につき、お経が始まるとすぐに、松室泰助がいかにも忙しそうにやって来て、そそくさと母親に会釈をし、半之助の耳元へ口を寄せると、小声で何かを囁いたのです。「なにかと急なものでして……すぐに、できるだけ早くお願いいたします」
半之助の耳に届くよう、松室はわざと隣にいる母親に聞こえる声ではっきりとそう言いました。
半之助はうなずきながら、ふと視線を千之助の方に向けました。
千之助は、大目付記録所の望月内記の隣に腰を下ろし、何やら親しげに話しかけていたのです。

二

役所の急用という理由はなんとか認められたものの、半之助はすぐには寺を抜け出すことができませんでした。
冲左衛門はあからさまに嫌な顔をしたのです。
すべての客の焼香がすっかり終わったら、本堂できちんと挨拶をしてから帰るように。それから、そのあとに開かれる接待の宴会にも間に合う時間に帰ってきなさいと、まるで命令するかのように言いつけました。
その瞬間、半之助はカッと頭に血がのぼり、「――あなたはいいったい何様なんですか」という言葉が喉まで出かかりました。
「しかし、言わなくて本当によかった」
お寺の門を出ると、彼はそう小さくつぶやき、思わず一人で苦笑いしました。
谷町の本家側の本当の目的がどうであれ、亡くなった父親の法要のために彼らが力を尽くしてくれているというのは、紛れもない事実だったからです。
「文句を言うべきときは、ほかにあるさ」
自分でそうひとりごとを呟いたものの、何だか自分が気負い立っていることに気づいて、半之助は急に恥ずかしくなりました。

山村座は木挽町五丁目にありました。
歩いて小半刻ほどの道のりです。
少し風が出てきたうえに空には雲が広がっていましたが、気温の高さは少しも変わらず、目的地に着いたときには、半之助の体はすっかり汗だくになっていました。
お茶屋さんは、三十間堀の川岸に面して建っていました。
芝居小屋が立派な建物に生まれ変わり、桟敷席や桝席などが作られるようになってからというもの、観客たちの雰囲気もガラリと変わり、一種の華やかな社交場や宴会場のような趣さえ漂い始めていました。
とりわけ二階の桟敷席には、お金持ちの商人の娘たちや、身分の高い武士、大奥の御殿女中などもやって来て、席のすぐ前には御簾(みす)を垂らし、屏風をぐるりと巡らせて、きらびやかに酒盛りをする光景がよく見られたのです。
こうした客の中には、小屋のほうから渡り廊下を通って、山村座の座主である長太夫の住まいへ行き、そこでお役者さんたちを相手に酒盛りを楽しむ人たちもいました。そうした客がしだいに増える一方だったため、数年前、川岸に沿う形で二階建ての大きなお座敷が建て増されたのでした。
木内文蔵という狂言作者の妻である「お勝」という女性が全体の采配を仕切っており、女中も五人ほど置かれるようになっていました。

半之助の父親は芝居が大好きで、気に入ったお芝居があると、一回の興行の間に五度も七度も劇場に通いつめるほどでした。
座主の長太夫も、父親が亡くなるまでは、一つ木の家へよく遊びに来ていたものです。
半之助が一人でこの茶屋に通い始めたのは、一年ほど前のことでした。
もっとも、彼は芝居を見るためというよりは、美味しいお酒を飲んだり、ごちそうを食べたりする方がお目当てで、友達を連れてくることもあれば、一人でしげしげと通うこともありました。
自分の家以外で、当時そんな風に心からくつろいで飲み食いできる場所といえば、遊里や岡場所を除けば、まずこうした芝居茶屋のほかにありませんでした。そこには、他の場所とは違った独特の雰囲気が漂っていました――華やかさとどこか哀しさが入り混じり、活気に満ちあふれている一方で、ふと胸を締め付けるようなはかない寂寥感があるのです。
そうした雰囲気が、半之助にとってはたまらなく強い誘惑だったのです。

「あら、お珍しい!」
女中のおなをが、飛びつくような声をあげました。
彼女は大きな広蓋(ひろぶた)を抱えており、顔じゅう汗だらけでした。
「おなをさんがお待ちかねでしたよ。いったいどうなさっていたんですか、このところずっとお見えにならなくて」
「いつものお座敷でいいかい?」
半之助は気にもとめず、ずんずん上がっていきました。
「とにかく、まずはこの汗を拭かせてもらうよ」
「はい、奥方さまにもそうお伝えしておきますね」

二階へとあがり、堀に面した一番端のお座敷が、いつも彼の席として決まっていました。
そこへ入って袴を脱いでいると、女将のお勝が挨拶にやって来ました。少し遅れて、おなをという女中が、冷たい水と手拭を持って部屋に入ってきました。
汗をすっきりと拭き取り、お茶屋の浴衣に着替えてくつろいでいると、昨日からの気疲れが一気にどっと吹き出し、風通しのよい場所だったこともあり、彼はまずゴロリと横になりました。
「どうなさったんですか、ひょっとして夏の暑さにでもやられてしまったんですか?」
「まあ、そんなところかな。みんなが来るまで、ちょっとひと眠りさせてもらうよ」
「それなら、ここからの光景が明るすぎるんじゃありませんか? 小さな屏風でも立てましょうか?」
「いや、これでいいよ。ただ、誰かが来るまでは誰もこの部屋に入らないようにしてくれ」
おな一度は部屋を出ていきましたが、すぐに派手な柄の帷子(かたびら)を持って戻ってきて、彼の足のほうにそっと掛けてくれました。

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