初級翻訳・桑の木物語 第12話

山本 周五郎

「こんなものを、どうせ、始末におえません、見るたびにどうも、なんとも」庭師の老人はしきりにこぼしていた、「――どうしたってお庭につくもんじゃございません、いまに爺いが叱られるに定っています」
正篤はなにも云わず微笑していた。
まだ下屋敷にいるときから、悠二郎は諄く正篤に念を押した。
今年こそ奥からやかましく云われるに違いない、しかし決して譲歩なさらぬよう、自分は祖父や準斎のほうを説得するから、あなたは奥に対してきっぱりした態度をとって頂きたい。
早婚の害はとりかえしがつかないという、二十までは決して奥の寝所へははいらぬように。
――正篤は約束した、そうして上屋敷へ戻った日の夜、改めて正篤のほうからその約束を繰り返した。
「決して譲歩はしない、大丈夫だ」

八

おれはまずおれ自身を生かしてゆく、そしてもし寿命がゆるすなら、世継ぎには健康な血統をのこすようにしたい。
正篤はこう云って、さらに次のように続けた。
「おれはおまえのおかげでいろいろ世間を知ることができた、商人や日雇い人足や職人たち、そのほか一般の町家の暮しをずいぶん見てきた、――そしてそのときの政治が、善ければいいように、悪ければそのまま悪く、直接あの者たちの暮しにひびくことも、おぼろげながらわかるように思う、……今年の冬もいこう、来年も再来年も、いとまのある限り見てまわろう、おれは今年は、初めて、――自分が六万三千石の領主だということに気づいたよ」
悠二郎はびっくりした。
やっぱり血というものは争えないと思い、ただ面白がっているだけの自分にてれて、独りで赤くなった。
「そのときがきたら、おれは自分で藩政をみる、まだそのときではない、だがそのときがきたら、――悠二郎、おまえと新泉がおれの両の腕になるんだぞ」
奥からは強硬な話が幾たびもあった。
いつかは表の寝所へ、生母の清香院が自分で迎えに来たそうである。
そのときは悠二郎は宿直にいなかったが、清香院の泣き声が焼火の間まで聞えたという。
――勘右衛門はすでに養育係を解かれ、老職の席だけはあるが、隠居づとめのような気儘な身の上で、そのころはもうあまり外出もせず、家で暢気に酒を飲んでいるというふうだった。
それでも悠二郎が頼むと奥御殿へいって呉れた。
……医者の室井準斎は奥や他の老職たちの間に挾まって、かなり苦しい立場らしかったが、これも勘右衛門と口を合わせて、正篤の健康を楯にねばりとおしたらしい、そして結局のところ延期ということに定ったのであった。
その年の十二月も下屋敷へいった。
明くる年の夏、そしてその十二月も同様である。
ただ遊びかたが段々に変り、芸人を呼ぶとか、ものを喰べにゆくとか、芝居や見世物を観るなどということが少なくなった。
――参覲のいとまが延びて、国へ立ったのはその翌年の二月のことであるが、それまで下谷から浅草、深川、本所あたりの、ごみごみした汚ない、長屋のような町ばかり選って歩き、人足などと並んで食事をしたり、彼等と酒を飲んだりした。
「長く生きられないとしたら、生きているうちに、せめて自分の領地だけでも、少しはましな政治がしてみたい」
正篤はしばしばこう云って溜息をついた。
「あんなにみんな困っているじゃないか、あれだけ働いて満足に暮している者がないじゃないか」
それからまたこうも云った。
「第一番に重職の交替をやろう、新しい風をいれて、そうして思いきったことをするんだ」
二月。
国許へ立つとき悠二郎は残された。
正篤には供のゆるしを得てあったのだが、間際になってその係りから云いわたされ、いやもおうもなく江戸に残されてしまった。
「なにいいさ、久しぶりで悠くり遊ぶさ」
勘右衛門はへらへら笑っていた。
「気が向いたら舟仙へでもいって、たまにはおつねに孝行をしてやるがいい、おまえまだ母ちゃんと呼んでいるのか」
「よして下さい、こっちはそれどころじゃありませんよ」
「ここで怒ったってしようがない。舟仙がいやならまた金魚の尾鰭でも切ってやるさ、またそろそろ伸びているころだぞ」
悠二郎はくやしがって歯ぎしりをした。
残されたことがどうにもくやしい。
新泉はもちろんくいしんぼうの原精一郎まで供をしていった。
どうして自分だけ残されたのか、正篤の意志でないことはわかっている、おそらく誰かの邪魔だろう、正篤から自分を離そうと思うやつの策動に違いない。
――いったいどいつの仕事だろう。
新泉かと幾たびも思った。
しかし気性こそ合わないが、彼は新泉がそんな人間でないということを知っていた。
まさか原のくいしんぼうではあるまいし、ほかに思い当る者はひとりもない。
そこでまたふっと新泉の名が頭にうかび、慌ててまたうち消し、自分でもしまいにうんざりして、よし、そんならこっちは息抜きをしてやれ、と、ようやく肚をきめた。
舟仙へもいったが、面白くはなかった。
「あら、信さんどうなすって」
「わからねえやつだな、このまえ来たとき云ったじゃねえか、殿さまの供をして国へいってるんだよ、なんど云やあいいんだ」
「そんなに怒らなくったっていいわよ、ただちょっときいただけじゃないの、そんなにもぽんぽん云わなくていいでしょ」
「うるせえ、あっちへいってろ」
つまらないのでごろっと横になる。
「どうなさるの、でかけるんじゃないんですか」
「うるせえって云ってるだろう、きこえねえのか」
三度ばかりいったけれど、たいてい二時間ばかりいると飽きて、つまらなくなって帰って来てしまった。
ときには茶間に坐りこんで仙吉やおつねと話しもした。
仙吉はおりおり勘右衛門へ挨拶にいくのでそっちの話もよく出た。
「このあいだは酒のお相手をして来たが、御隠居さまもめっきり弱くおなんなさいましたね」
「そうかなあ、おれは半月ばかり会わねえから、知らねえ」
「そのときも話が出たんですが、悠さん此処からお帰んなすったときずいぶんお困んなすったんですってね」
「なんだっておめえ当りめえよ、今まで野放しに育ったんだ、それこそ年じゅう裸で、好き勝手にとびまわっていたのが、着物をきちんと着て袴をはいて、腰に御刀を差して行儀作法だ、……おまけにそれが悪戯ざかりの七つてえ年なんだから堪らねえやな」
「まったくね、あの日ここで支度をなさるとき、べそをかいてらっしゃるのを見て、あたし涙が出て涙が出てしようがなかったわ、夜中にひょいと眼がさめると眠れないのよ、いまごろどうしていらっしゃるか、あんまり窮屈なんで浅草へ帰りたがって泣いてでもいらっしゃりゃあしないかって、――なんども夢をみたわね、母ちゃんって、はっきり呼ぶのを聞いて眼がさめるの」
「帰っていらっしたに違えねえ、ちょっと表を見て来るからって、そうじゃねえ夢だってえのに強情をはりあがってよ、寒いのに表まで出てみやがったっけな」
「外はまっ暗でしんと寝しずまってるの、来たことは来たけれど、叱られると思って隠れてるんじゃあないか、――暗い道にはまっ白に霜がおりてる、悠ちゃん、悠ちゃんって、裏のほうまで呼んでまわったこともあったわね」
「もうそんな話はいいや」
悠二郎はてれて起きあがる。
「久しぶりで肩でも叩こうか、母ちゃん」
するとおみつがぷっとふきだす。

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