六
「――なんだか嫌な話だな」
半之助は顔をしかめた。
そのような陰謀めいた話には何の興味も湧かないし、聞いていて耐えられない気分だった。
「もうやめにしようじゃないか」
そう小声で囁いたとき、ちょうど下の座敷へ一人の女が入っていくのを見て、彼は思わず息をのんだ。
真上から見下ろしているため、もちろん顔かたちははっきりと分からなかったが、部屋に入ってきたときの額から頬にかけてのあたり、そして体の形や身のこなしが、反射的にあの女を思い出させたのだ。
山村座の茶屋で、すっ裸になって汗を拭かせてくれた、あの女を。
しかしすぐに半之助は首を横に振った。
――そんなの、偶然すぎる。
ここへ来る途中でもあの女のことを思い出したりしていたし、この家の異様な空気が、そんな連想をさせただけに違いない。
そう自分に言い聞かせ、彼はそっとその場を離れた。膳の前に座ると、主馬も襖を閉めてこちらへやってきた。
「いったい何のために、あんなものを見せたんだ」
「何か反応があると思ったからさ」
「それだけじゃ分からないな」
「一杯どうですか」と、主馬は銚子を取り上げた。
「いや、それより話を聞こう。あとで相談があるとも言っていたし、何か理由があるんだろう」
「安倍はむかしから、政治なんて嫌いだと言っていたね」
「今でも嫌いだ」
「それがね、嫌いでは済まなくなってくるんだよ」
半之助は(なかば無意識に)盃を取りながら、訝しげな目を向けた。
「まず言うが、村田は長崎へ行ったね。公用を兼ねて、本草関係の資料を集めるために。そして一年ばかりでこのあいだ帰ってきた。そうだろう」
「続けてくれよ」
「だが、長崎へなど行ってはいなかったのさ」
言いかけて、主馬が妙な目配せをした。
半之助には気づかなかったが、誰かが階段を登ってくるらしい。
がっしりした造りなので木のきしみはないが、耳を澄ますと、たしかに人の気配が感じられた。
「とにかく殺生禁断の件はいいさ」主馬がわざと酔ったような声で言った。「こういう家があって、いつでも安心して肉が食えるのは、あの法度のおかげだからね……何か言ってくれよ」
最後の言葉は、すばやい囁きだった。
しかし半之助には、そんな素早い真似はできなかった。
顔をしかめ、ダメだというふうに手を振ると、主馬が慌てて取り繕った。
「ああ、あいつはひねくれ者だからね。曲軒なんてあだ名がつくらいで、何にでも理屈をつけるんだ。なってないよな」
でたらめなことを口にしていると、廊下に面した障子に人の影がうつり、すっと障子が開いた。
「――誰だ」
主馬が言った。
半之助も、盃を手にしたまま振り返った。
廊下に男が立っていた。
さっき庭で、射落された鷺を足蹴にした男である。みじん流剣術の達者で、次高来太(つぎたからいた)とかいう、あの小男だった。
本当に酔っているのかどうか、次高という男はふらふらしながら、嫌な目つきでこちらを睨んできた。
――どうする。
半之助は主馬を見た。
主馬は「任せろ」という目配せをし、黙って相手を見返した。
次高という男は、ゆっくりと手の甲で口の横をなで、太くて濃い短い眉をぴくっとさせながら、
「覚えたぞ、その顔……」と言って、ぐいと主馬を指さした。
だが主馬はやはり無言のまま、やさしげな目つきでじっと相手を眺めていた。
半之助は次高の顔に、ふっと凶暴な色が走るのを見た。
ほんの一瞬のことだが、ごく卑しく、殺意に似たその表情は、忘れられないものだった。
ついで彼は自分の鼻を指さし、「おれのこの顔も、覚えておけ」
そう言ってせせら笑いながら去っていった。
その足音が聞こえなくなるのを待ちかねて、半之助は主馬に向き直った。
「いったいどういうことなんだ」
「そう言われてもちょっと困るが、ともかく、失敬なことになって悪かったな」
「もう出ようじゃないか」
「まあ待ってくれ。まだ話も残っているし、すぐに帰るというのはまずいんだ。なに、もう大丈夫だよ」
主馬は済まなそうに、しかし落ち着き払って、次高が開けた障子のところへ歩み寄り、さらに大きく左右へと開け放った。
「どこまで話したっけか。ああ、村田は長崎などへは行っていなかった、というところまでだな」
「そんな大声を出していいのか」
「もちろんさ」
主馬は軽侮するような身振りをした。
「あいつらは針の穴から覗くのは好きだが、開け広げた窓を見る知恵なんてありゃしない。それに、いまのあいつだって単純なおどしで、何も知っているわけじゃないんだ」
そのとき、まるで彼の軽侮を笑い飛ばすかのように、庭の方から矢が一本、空を切って飛んできた。そして鋭い音を立てて、天井板に突き刺さった。
二人ははっと片膝を立て、突き刺さったまま震えている天井の矢を見上げた。
「――なるほどね」
半之助が言った。
「――あいつらは、何も知らないらしいな」
「知るはずがないんだ」
主馬はそう言ったが、今度はあまり自信のない声だった。
「つまり、何かをつかもうと探りをいれているんだろうが、少しうるさいから、一応ここを出ることにするか」
「二の矢が来る前にね」
主馬は下へと降りていった。
着替えをして裏口から出るとき、庭の向こうで笑う声がした。
弓を射た(菱屋庄兵衛という)やつか、次高来太か、いずれにしても、自分たちを嘲笑していることは確かだった。
主馬は少し振り返って何か言いかけたが、そのまま外へ出た。
「海端がいい。涼みながら話そう」
空はまだ明るかったが、あたりはすっかり黄昏れて、夕凪時の湿気が地面をむっと覆っていた。
二人は水の見える方へ歩き出した。
執着
一
青山主馬が半之助を「丸茂」へ連れていったときは、裏口から出入りをしたのである。そのとき水野とか大久保などという、幕府の閣老たちも、柳沢吉里といっしょに(むろん微行ではあろうが)やはりそこから入って来た。
多くのばあい、それがこの家の習慣であるらしい。
付近の住民も、表門から人の出入りするのは、ごく稀にしか、見ることがなかった。
表がわは、中通りを隔てて、武家の小屋敷のある、小田原町と向きあっていた。
ざっとした板塀に、小さないおり門で、見つきは閑雅な構えであるが、塀の内は、裏と同じように、樹立がみっしり繁っていて、中のようすはまったく見えないし、いおり門には番小屋がある、というぐあいで、注意して見ると、なかなか用心堅固であった。
七夕を五日さきに控えた、暑い日の午後。
丸茂の表門に、珍しく客があった。
それは農家の隠居といったふうの、五十五六になる中老の男で、若い供を二人つれていた。
ながい、そしていそぎの旅をして来たとみえ、埃と汗にまみれた、ひどく草臥れた恰好であったが、門番に向って、こう案内を申しいれた。
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