初級翻訳・へちまの木 第8話

へちまの木

 そんなことを思いながら文華堂へ行き、店の脇にある階段を登ろうとすると、女中のおかつが急いで駆け寄ってきて、「この間はまたありがとうございました」と、顔を真っ赤にしながらもじもじとそう言った。「お腹いっぱいでお弁当なんて食べられないのに、この前の日は鯖(さば)の味噌煮と煎り豆腐と、菜っ葉の胡麻和えをくれて……。あんなに美味しいものを食べたのは人生で初めてで、食べているうちに涙が止まらなくなっちゃって」
 おかつは、吃音(どもり)のある人特有の、細かく言葉を区切るような話し方でそう語った。
「わかったわかった」と、房二郎は話を遮るように言った。「今日のももしよかったら食べていいよ、俺は欲しくないからな」
 そして、おかつからお礼を言われるのを避けるように、足早に二階の記事部屋へと上がっていった。
 時間がまだ早いのか、それとも雪のせいで遅れているのか、刷り部屋の方にもまだ誰も来ていなかった。
 そして彼が自分の机に座ろうとしたとき、奥の座敷から物を投げつける音が聞こえ、店主の妻であるおそでのヒステリックな叫び声が響いた。
「『寄合い』だなんて、誰がそんな言い訳を信じるもんか!」とおそでは怒鳴り散らした。「私が知らないとでも思って、人をバカにするのもいい加減にしなさいよ! さあ、昨晩はどこに泊まって来たの、どこの尻軽女と寝て来たのよ、言ってみなさい!」
「すまなんだ、泊まったりしてほんまにすまん……!」と、文華(ふみはな)の情けない声が聞こえてきた。「やけど、寄合いは同業者の付き合いやし、そのあとだって、わて一人だけ付き合いから抜けるちゅうわけにはいかんがな……。もう帰ろ、帰ろと思いながら、ついつい……」
 ガシャッとおそだがまた何かを投げつけた。
 文華は襖(ふすま)を開けて逃げ出し、廊下にペタリと平伏した。
 あいにく、女中が掃除を終えたばかりだったのか、こちらの記事部屋の障子がまだ開け放たれていたため、廊下に這いつくばった文華の、痩せこけた小さく貧相な姿が丸見えだった。
「このとおりや!」と文華は廊下に額を擦りつけた。「泊まったんは付き合いやから仕方なくやけど、女の人となんとかなんてしとらへん! それは誰にきいてもわかることやから……な、堪忍してくれ、このとおりや、堪忍してくれ!」
「岡場所(遊郭)みたいなとこに泊まって、お前が女を抱かずに寝るような男なもんか!」
「ほんまのことやて!」と文華は必死に言い張った。「自分でも、なんでやろかと思ったくらいやねんから……!」
 おそだがキャーッと叫び、また何かを投げつけた。
 それは湯呑茶碗(ゆのみぢゃわん)だったが、廊下に叩きつけられても幸い割れず、そのままゴロゴロと記事部屋のほうまで転がってきた。
 文華は「堪忍や、堪忍や」と言いながら、這いつくばったまま頭を上げたり、額を廊下の床にすりつけたりした。
 まるでバッタが跳ねるような、そんな情けない姿を絵に描いたような有様で、房二郎はもう見ていられなくなり、立ち上がって刷り部屋から廊下へと抜け出し、階段を下りて店先へと逃げ込んだ。
 ちょうどそこへ木内桜谷が入ってきたので、房二郎は目配せをし、二階を指さして頭をぶんぶんと振った。
「とにかく『とんび』へ行こう」房二郎は店の番傘を手に取りながら言った。「話はとんびに行ってからにするよ」

 だが、「とんび」の店はまだ開いていなかった。
 しかたなく二人は、小網町(こあみちょう)の居酒屋「沢茂(さわしげ)」へと向かった。
 そこは船頭や荷揚げの親方などが集まる店なので、朝早くから店を開けているのだった。
「人間って本当に面白い生き物だよな」事情を聞き終えると、木内はクスクスと笑いながら首を振って言った。「あの女狐(おそで)は七日ばかり前に、あの桜水の若造と浮気をしやがったんだよ。記事のネタを持ってきたときにちょび髭(店主)がいなかったもんだから、そのままちゃっかり逢引(あいびき)宿へなだれ込んだのさ」
「逢引宿なんて、俺は生まれて初めて聞いたな」
「この裏手にはいくらでもあるさ。江戸じゅうどこへ行ったって、そんな場所に事欠くことはないね」と言いながら酒をすまし顔で啜り、木内は顔をくしゃくしゃにして皮肉っぽく笑った。「おまえさんは千石取りの旗本育ちだから、そんな裏社会のことはわからないだろうがね」
「ちょび髭(店主)はそのことを知らないのかい?」
「知ってるさ」と木内は平然と言い放った。「前にも言ったはずだがね、夫婦として暮らしていれば、ちょっとした身なりや気配りだけでそんな不義理に勘づかないわけがないだろう。ちょび髭だって、ちゃんと知ってるのさ」
「それなら今日だって、どうしてやり返してやらないんだよ」
「金のためさ、房やん」木内はそのよく動く目をギラっと光らせた。「ちょび髭は女狐が隠し持っている金を狙っているし、女狐の方もそれをよく承知している。つまり、お互い様で化かし合いをやってるってわけさ」
「なんだか反吐(へど)が出そうだな」
「世間をよく見てみなよ、みんなお互いに化かし合いながら生きているようなもんじゃないか」
 木内桜谷はそう言ってケラケラと軽薄に笑った。
 房二郎はガクッと肩を落とし、深々と溜息をついて、「こっちにも酒をくれ」と注文した。
 彼はそれまでおとなしく香煎(こうせん)を啜っていたのだが、これ以上シラフではどうにもやりきれない気持ちになったのだ。
「本当にいいのかい?」と木内が意地悪くきいた。「おらは今一文無しだぜ」
「大丈夫……なはずさ」房二郎は懐を押さえて言った。「あの女房の様子じゃ、今日の修羅場はまだまだかなり長引きそうだからな。あんな気分の悪くなる騒ぎは、もう二度と見たくないんだ」
「そうやって逃げ出せればいいけどな」木内はまた嫌味な笑みを浮かべた。「そうやって目を背けて生きられるなら、世の中苦労はしないさ。だけどもし本格的にゴシップ記事屋をやるつもりなら、どんなに卑しくて汚らしい現実からだって目を背けちゃいけない。むしろ自分からグイグイとぶつかっていかなきゃならないんだぜ」
「まさか、こんな仕事だとは思わなかったよ」
 店の子のおつまが酒とつまみを運んできて、「いったい何が『思わなかった』んですか?」と首をかしげてきいた。「こっちの話だ」と房二郎が言った。「そうだ、鯛の刺身を頼む」
「悪い冗談だな」と木内が言った。
「本当に注文するんですか」とおつまはニヤニヤしながら言った。「今日はウズラの串焼きが美味しいのがあるんですよ」
「刺身だ」と房二郎は自分で酒を注ぎながら言った。「お金のことは心配するなって言ってくれ」
「悪い冗談だな」とまた木内が言った。

文華堂へ戻ってみると、刷り部屋の者たちもみんな来ており、記事部屋には木谷桜所(きたいおうじょ)が自分の机の前におっとりと座り、房二郎が書いた原稿を優雅に読んでいた。
房二郎の書いたものを読んでいるのは一目でわかった。
房二郎が自分の机の前に座ると、桜所がスッと立ち上がり、綴られた原稿の束を静かに机の上に置いて、「拝見しました」と言った。
「拝見したんですがね」と桜所はとても上品に言った。「これは美しい文章(雅文)ですね。

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