初級翻訳・桑の木物語 第7話

山本 周五郎

そして、若君の気をまぎらわせてやろうと思い、耳に口をぴったりと押しつけてささやいた。
「魚をすくいに行きませんか?」
若君は怪訝(けげん)そうな顔をしてこちらを見た。
「鮒(ふな)だのエビだのが獲れるんですよ。面白いぜ!」
ほかのやつらには内緒だからな、と約束して二人はこっそり示し合わせ、例の屋敷の端っこにある谷へと下りていった。
若君は笠木塀(かさぎべい)を乗り越えるときに泣きそうになり、台地を飛び下りるときには膝をすりむいた。
動作がのろくさくて不器用なので、悠二郎は思わず舌打ちをしたくなった。
「もっとてきぱきしなくちゃダメですよ! すりむいたところなんか放っときなさい。番人に見つかったら大変なんですから!」
一番下の菜園の、石垣を飛び下りると、その石垣の一ヶ所が崩れた穴から目笊(めざる)を取り出した。
――若君は不安そうにあたりをキョロキョロと見回していた。
薄暗くてジメジメとした、狭い谷底のような景色にびっくりしたようで、おまけに不安で気持ちが落ち着かないらしい。
悠二郎は「さあ、こっちですよ」と言って、生い茂る葦(あし)をかきわけながら流れる水のところへ行った。
幅は三尺(約90センチ)ほどで、ほんの浅い泥の溝川なのだが、溜池(ためいけ)につながっているため、そっちから小さな魚や川エビがのぼって来るのである。
悠二郎は慣れた手つきで袴の股立(もだち)をとり、はだしになって流れの中へ入ると、たちまち小鮒を一匹すくいあげてみせた。
「ほらね、獲れたでしょ! こいつは『きんこ』って言うんだぜ。金色に光ってるだろ? 金鮒(きんぶな)とも言うけど、小梅のやつらは『きんこ』って呼んでるんだ」
彼は小鮒を五匹と川エビを三匹ばかり獲ってみせた。
若君にとってはまったく初めての経験で、そのときはただ驚くばかりだった。
目をまんまるくして、まるで馬鹿にでもなったような顔をしていた。
その翌日のことだった。遊び時間になると若君が彼を呼びとめ、「若のところにも魚がいるよ」と言った。
そこで一緒に行ってみると、小さな泉水(せんすい)に金魚が泳いでいた。
――それはランチュウとかシシガ頭とかいう例のブサイクなやつで、父親の勘右衛門が献上したものだということがすぐにわかった。
悠二郎は急に生臭いような嫌な気持ちになり、わきの方へ「ペッ」とつばを吐いて、ちぇっ、こんなのさあ、と顔をしかめて言った。
「こいつらはみんな片輪者(かたわもの)ですよ! 女が見るようなもんですぜ。こんなの何が面白いんだか、なってないなあ!」
若君は途方に暮れたような顔をして、すっかりしょげてしまった。
だが、二日ばかりすると、彼はまた若君を誘って川へ魚をすくいにいった。
三度めには、なんと若君の方から「行こう」と言い出したのだ。
よっぽど面白くなったらしく、笠木塀を乗り越えるのも、台地を飛び下りるのも、番人が来たときに隠れるのも、だんだん板についてきた。いまでは自分から流れに入って魚をすくうようになったのである。「本当はこんなもんじゃないんだぜ、橋場の川へゆきゃあ鮠だの鯉っ子だの、こんなでけえのが山と獲れるんだぜ――おれなんか綾瀬川でなんべんも鯉を釣っちゃった」
「――そこへは、若もゆけるの」
「いかれやしねえさ、いけると面白いんだがな、芝居もあるし、観音さまにゃあ軽業もかかるしよ、ろくろっ首って見たことがあるかい」
「――若はいつか、……いつか、能を観た」
そんなぐあいに話もするが、たいていちぐはぐで、悠二郎はいつも軽侮に堪えないという顔をし、それから気の毒になって、自分の楽しい経験を詳しく物語るのであった。
新泉が出て来はじめると、若君はまた新泉をひきつけて離さなかったが、悠二郎にも疎くはしなかった。
ただ二人がどうしても折り合えないということは察したとみえ、悠二郎には決して新泉の話をせず、新泉に悠二郎のことは黙っていたようだ。
若君を屋敷からぬけ出させて、浅草|界隈の面白いところを見せてやりたい。
悠二郎はその頃からよくそう空想していた、もちろん空想するだけで、実際にやろうとも思わなかったし、そんなことが出来るとも考えなかった。
しかしやがて機会がやって来て、その夢のような空想が実現できるようになったのである。

五

若君が十二歳になった年、六月から八月いっぱい、本所の下屋敷ですごすことになった。
躯が虚弱なので、医師と勘右衛門の主張で定ったらしい。
女をひとりも置かず、侍もごく僅かで、学問も他の稽古もなく、七人のお相手と遊び暮していればよかった。
――その下屋敷で、悠二郎は巧みに機会をつかみ、若君を外へぬけ出させたのであった。
そこでは万事がゆるやかだった。
養育係としては勘右衛門がいるだけだし、御殿の造りも、塀がこいも簡略で、隠れて出入する隙は幾らでもあった。
たいていは若君に「気分が悪い」と云わせ、寝所へはいるふりをして出かけるのである。
それにはお相手のなかの原精一郎というのを身代りに寝所へ寝かして置いた。
精一郎はずぬけたくいしんぼうで、いつも一袋の菓子で買収することができたのである。
――悠二郎はぬけ出るとまず舟仙へゆき、そこで若君にも着替えをさせ、そうしてほうぼう伴れまわった。
舟仙の者には若君を友達の信太郎だと紹介し、かれらの前では「おい信ちゃん」などと呼んでみせた。
若君のほうにはこっちを「悠公」と呼ばせ、それで幾分かは階級をつけるつもりだったが、どうしても若君はそれに慣れず、しまいまであいまいに「おい」とか「ちょっと」とかいうふうにしか呼ばなかった。
悠二郎は小梅の勝んべを撲るところもみせた。
魚の釣り方も、池のかいぼりも、大川で泳ぐことも教えた。
若君もだんだん身軽に動けるようになり、わる悪戯をして追っかけられるようなばあいでも、なかなかすばやく巧みに逃げられるようになった。
――向島の長命寺の近くへいったときのことだが、寮めいたある家の側でふと思いだし、「ちょっと待ってな、慥かこの中だと思ったが、いまうめえ物を取って来てやるからな」
こう云って悠二郎は、生垣の隙から庭の中へもぐり込んだ。
そこでまえに桑の実を取ったことがある、少し季節がおくれているが、場所は慥かにそこだと思ってはいった、するとはたして大きな桑の木があり、生り盛りは過ぎているが、黒い実がまだかなり残っている。
――悠二郎は両手でそれを摘み取り、ふところへ入れてはまた摘み取った。
と、とつぜん、
「この野郎、また庭を荒すか」
こう叫びながら、下男のような男が棒を持ってとびだして来た。
悠二郎はすばやく生垣の隙から外へぬけ、「早く早く」と、若君をつきとばすように逃げだした。
――水戸屋敷のところまで息もつかずに走り、そこの土堤の下で、ふところから桑の実を出して二人で喰べた。
「うまいねえ、こんなうまい物は初めてだ、これなんの実なの」
「桑の実さ、こいつを喰べると口ん中じゅう紫色になるんだ。
ほら見てみな、ね」
「本当だ、若のもなってるかね」
二人は互いに口や舌を見せあい、おはぐろを付けたようだと笑いあった。
九月に上屋敷へ帰ると、若君は庭師に命じて桑を二本植えさせた。

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