初級翻訳・山彦乙女 第17話

山彦乙女

それから、権之丞の挨拶を上の空で聞き流しながら、こう言いました。
「手紙は見たけれど、あれでは要ったことがよくわかりません。いったいお父さまは、どうしろとおっしゃっているのですか?」
「殿さまはご病気でございます。そうでなくとも、江戸でのご滞在が長すぎます。一日も早く甘利(あまり)へお帰りになられるようにと……」
「いいえ、嫌です」
「――いや、とおっしゃられましても」
「嫌です、帰りません」
「なぜでございますか!」権之丞はきっと目を吊り上げました。「三年まえに江戸へおいでなされてから、これだけの人数をお側にとどめ置き、巨額なお金をムダ使いされ、先日は乙女さままでお呼びよせになったきり、お返しにならない」
「花世も江戸に置きます」
「なんのためにですか!」権之丞はたたみかけました。「今日こちらへ来て見れば、このような法外なお住まいを建て、武家の人々と行き来しておられる。いったいどういうおつもりなのか、まったく納得いきかねます」
「お父さまはご存じのはずです」登世は少しもひるむことなく答えました。「ご存じだからこそ、呼び戻そうとなさるのです」
「それはどういうことでございますか?」
「武田家をふたたび興すための、旗揚げです」
「ああ、比女さま……!」
権之丞はうめきました。
それは恐ろしいことに対する恐怖のようでもあり、ひどく絶望したようにも聞こえる声でした。
「それは狂気の沙汰でございます」
「なにが狂気だというのですか?」
むしろ皮肉な響きをこめて、あざ笑うかのように登世は権之丞を見つめました。「恵林寺さまが亡くなられてから百三十年以上たちます。みどうの家がずっと続いてきたのは、武田家をもう一度盛り立てるという悲願をはたすため、ただその目的のためだけだったのではないでしょうか。だからこそ、あのあたり一帯の人々から深い尊敬を受け、大名でもかなわないような豊かな暮らしができたのではありませんか」
「いいえ、それは違います。みどう家は武田家のご一族である名門であり、何百年ものあいだ住民たちに正しい政治を行ってくださいました。巨摩(こま)の一郡の人々が敬ってくださるのはそのためでございます。お家を再興することなど、今となっては夢物語と同じで、本当に信じている人は一人もおりません」
「かんば沢のことも信じていないのですか?」
そのとき、登世(とせ)の顔に、きらきらと光るような強い感情が走りました。
「かんば沢の伏岩(ふせいわ)のことも、信じてはいないのですか?」
「それは比女(ひめ)さまが一番よくご存じのはずでございます」
「ただそこにお墓があるからだと言うのでしょう。恵林寺さまの、本当ご遺骨がおさめられたお墓が……だからこそ、地元の者たちが命がけでそれを守っているのだと」
「どうしてそんなにお笑いになるのですか」
「この家をごらんみなさい」
手でまわりをぐるっと指し示しながら、登世はとてもおもしろそうに微笑みました。
「江戸へ来てから三年、登世がものすごい大金を使ったとおっしゃいましたね。お父さまや権之丞(ごんのじょう)にとっては大変な大金に見えるかもしれませんが、それくらいの金額では、この家を建てるのがせいぜいでしょう。じっさいには、その十倍ものお金を使っていますし、これからも使うつもりです」
「――比女さま」
「どこからそんな大金が出てくるのか、想像がつきますか、権之丞」
権之丞は目を大きく見はりました。
「夢物語ではありません。伏岩は本当にあるのです。伏岩の存在が、夢物語などではないということを証明してくれました。だから登世は江戸へやって来たのです」
「それでは比女さまは、あんなにも厳しく言い伝えられて禁じられている伏岩を、ごらんになったのですか?」
「登世が初めて見たわけではありません。おばあさまも開けていらっしゃいます」
「――まさか、そんなはずは」
「慶安の騒動(由井正雪の事件)のときには、おばあさまの手から軍資金が出されたのです。伏岩の中に、その動かぬ事実がおばあさまご自身の文字で書かれて残っているのです」
「私にはとても信じられません」
少しポカンとした様子で、権之丞はそっと首を横に振りました。
「もしそんな事実があったとしたら、今日まで誰もそんなことを知らなかったなんて、ありえないことではございませんか」
「権之丞が知らないからといって、知っている人が一人もいなかったとは言えないでしょう」
「では、いったい誰がそれを知っているというのですか」
「特定の誰かというより、誰でも、と言うべきでしょうね。甘利(あまり)の一郷の住民は、みどうの者の言いつけには決して逆らったことがありません。『他人に話してはならない』と言えば、殺されようとも絶対に口外しないのです」
「しかし、それは状況によるのではありませんか」
「そのとおりです。状況によります、とりわけお家の再興に関わるような大切な場合には、なおさらです」
「――――」
「現に、この登世のことがそうではありませんか。登世がしていることが、今日までお父さまにさえ知られずにすんでいたではありませんか」
登世の目はしだいに輝きを増し、その表情には、どこか常軌を逸したような、異様な色が浮かびあがっていました。
「慶安の騒動は失敗に終わりました。失敗した理由はさまざまあるでしょうが、いちばん重大な点は、事を起こした人間が孤立した浪人であり、拠って立つ地盤も勢力もなかったということでしょう。また、おばあさまが書き残された記録によると、ご援助のしかたも中途半端なもので、ご本人たちも事が成功するとは本気でお考えになっていなかったように思えます。しかし、登世のやり方はそんな中途半端なものではありません」
そう言って登世は、一度は片づけていた巻物の一つを再び持って戻り、「これをごらんみなさい」とそれを差し出しました。
権之丞は広げて見るなり、「ああっ」と声を漏らしました。
「これは、お家の由緒あるご系図ではありませんか」
「一番はじめの始祖のところを開いてごらん」
権之丞は巻物の端を繰りひろげました。
すると登世は、別に用意してあった新しい紙のほうを広げ、「これは柳沢家の系図です。見比べてみなさい。五代目の信光(のぶみつ)は武田五郎と呼ばれ、大膳大夫(だいぜんのだいぶ)信義(のぶよし)から分かれたことになっているでしょう? 信義はみどう家の初代ですから、私たちの家は明らかに武田氏のまっすぐな血筋ということになります」
「しかし、このような一族の系図は、これまで一度も聞いたことがございません」
「それこそが当然なのです」
登世は声を立てて、短く笑いました。
権之丞はその笑みの意味を察したのでしょう、激しく、責め立てるような目で登世をにらみつけました。

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