「もしお酒を飲むんなら、ちょっと待ってね」とおるいは言った。「朝から何も食べていないんだもの。お粥ができたから、それを食べてからにしなさいよ」
「食べ物はいいや、まず酒にしよう」
「だめよ」とおるいは房二郎の肩を軽く叩いた。「もうできているんだから待って。空っぽの胃のまま飲んだら、また苦しむだけよ」
すぐだからね、と言うと、おるいは小走りで部屋を出ていった。
木内桜谷はニヤニヤしながら、まるで本物の夫婦みたいだな、と言った。
房二郎はその向こう側に座り、片手を差し出して、酒の盃をもらおうとした。
「だめだね」木内は首を横に振った。「空きっ腹に酒は毒だからな、あの奥さんの言うとおりだよ」
「そんないやみは痛くもかゆくもねえや」と房二郎はひょいと顔を上げた。「忘れていたが、記事のネタを金にするとはどういうことだ」
「考えないほうがいいさ。お前にはできっこないし、そんなことはさせたくもない」
「だけどおれだってもう生きていかなくちゃならないんだからな」と房二郎は言った。「できることなら記事屋としてやっていきたいし、そのために必要ならなんだってやるつもりだ」
おるいが盆を持って部屋に戻り、房二郎の膳を置いた。ゆきひら鍋と茶碗、梅干しの小皿と箸を並べ、「お待たせしました」と言った。
房二郎は自分でやるからいいと伝えたが、おるいは気にせず、卵の入ったお粥を茶碗によそって房二郎に手渡した。
彼は木内桜谷にちょっと待ってくれと言い、箸を手にとった。
お粥の匂いを嗅いだ途端、急にものすごくお腹が空いてきたのだ。
お粥は塩加減もよく、卵も半熟で、こんなに旨いものがあるだろうかと思いながら、房二郎は茶碗に二杯も平らげた。
おるいはその様子を楽しそうに見つめ、「味付けが薄かったかしら」と尋ねた。
「わからないな。なにしろ、物心ついてからお粥なんて初めて食べたもんでね」と房二郎は茶碗を置きながら言った。「でも、すごく美味しかったよ」
「よかったわ。それだけ食べれば大丈夫ね」おるいはゆきひら鍋や茶碗を盆に移し替えると、代わりに燗徳利と盃、そしておつまみの小皿を二つ、膳の上にのせた。「でも気をつけてね。やけになって、飲みたくもないのに無理して飲んだりしちゃダメだよ」
「おれが怒られてるみたいだな」と木内は首をすくめて言った。
おるいが去ると、房二郎は手酌で酒を一杯注ぎ、すぐには飲まずに、「さあ、聞かせてもらおうか」と緊張した面持ちで言った。
「話したところで無駄なんだけどな」木内は酒をすすりながら言った。「いや、話したほうが諦めがつくかもしれないな。言ってしまおう。――記事のネタを金にするというのはだな、古い手だが『ゆすり』のことさ」
「ゆすりだって?」
「金持ちの内情を暴いて、こういう記事を瓦版にして売り出すんだが、お前さんの名前を書かなければならないので、あらかじめ知らせに来た、ともちかけるのさ」と木内は説明した。「大店や金持ちともなれば、世間に知られたくないような内緒事が二つや三つはあるものだ。金で済むなら世間に恥をさらさずに済むから、その記事を買い取ろう、ということになるわけさ」
房二郎は膳の上から盃を取り、眉をひそめながらグイとあおった。「へえー、そういうことかい。へえー、そいつはとびきりへちまの木だな」
「お前、ときどきそれを言うが、へちまは木にはならねえんだぞ」
「どうしてだ」と房二郎がやり返した。「だって、ナスの木ってみんな言うじゃねえか」
「どっちでもいいが、ナスは一本立ちだから木と言ってもいいだろう。しかし、へちまは竹とか木なんかに絡みつくツル草だからな、どうこじつけても木とは言えねえんだよ」
五
房二郎は夢の中で、やわらかく、吸いつくような、熱い女の体の重みを感じていた。
いつかのあの女だな、と彼はぼんやりと思った。
女の体は彼を上から覆い、押しつけたり、締めつけたりした。
懸命に苦痛に耐えているような女の声を聞きながら、また飲みすぎたんだな、と彼は思った。体の一部に変な感覚が走って、その感覚が一気にピークに達したとき、彼は女性の小さな、何を言っているのかわからない叫び声を聞き、自分の筋肉という筋肉がバラバラにほどけていくのを感じた。
「池さん、もう起きないと遅れちゃうわよ」とおるいが言った。「もし文華堂に行くつもりならだけどね」
「行くさ」と、まだ夢見心地で答えてから、房二郎はパッと目を覚まし、枕元にいるおるいを見た。「ああ、なんだ、あんたか」
「あんなに飲んじゃダメだって言ったのに、そんなにばかり飲んでると、そのうち体を壊しちゃうわよ」
「痛いところをつくな」と房二郎は言った。「だけど男にはね、死んだほうがよっぽどマシだって思える瞬間もあるんだよ」
「女にはそんなときがないとでもお思いですか」
「参ったな」と房二郎はまた言った。「俺は世間に飛び出したばかりで、自分のことだってまだよくわかってないんだからさ」と言いながら、彼はちょっと照れくさそうな顔をした。「――昨日の夜は、そうそう遅かったのかい?」
「覚えていらっしゃらないの?」
「売り子の段平と久兵衛が一緒でさ、自分の知らないあちこちに連れ回されたもんだから、いつどうやって帰ってきたかなんて全然覚えてないんだよ」
おるいの顔に、可愛らしくも艶っぽい微笑みが浮かんだ。
「売り子って、いわゆるヤクザな仲間の方なんでしょ?」とおるいは言った。「まさか変なところになんて連れて行かれてないでしょうね」
「そんなわけないさ」房二郎はふっと顔をそむけた。「もっとも、酔っ払ってたから、どんなところを回ったのかはよく覚えてないけどね」
「女の人が一緒だったんじゃないの?」とおるいは探るような口ぶりで聞いた。「ほかの女の人と浮気したんでしょ」
「顔を洗ってこよう」と言って彼はむっくり起き上がった。「いつまでも休んでばかりもいられないからな」
「卵がゆができてますよ」
房二郎は怪訝そうな顔をした。「へえ、どうして?」
「お酒を飲んだあとには、あれが好きなんじゃありませんでしたっけ」
「そんなこと言ったかな」
「口に出さなくたってわかるわよ」と言っておるいは立った。「さあ、起きてちょうだい。半挿(はんざし)にお湯を用意しておくからさ」
◇
文華堂の前で、売り子の段平と出会った。
瓦版の束を左手に、古い扇子を右手に持っていた。
お饅頭のような形の編笠をかぶり、裾をまくった布子の下から、ほっそりとした紺の股引をはいた足元が、いかにも粋でいなせに見えた。
「昨日は世話になったな」と房二郎は言った。「だいぶ散財させちまったんじゃないのか?」
「なにさ、顔馴染みの店ばかりだからね」と段平は苦笑いをした。「銭なんて使っちゃいないさ、あるときに払えばいいんだから決まりだろ」
房二郎は財布からいくらか取り出し、足りないだろうが割り勘分だと思って取っておいてくれ、と段平に手渡した。
そして、段平が断るのを遮るように、昨日はどこで別れたのかと尋ねた。
「お宅の前でさ。あんまり酔っ払ってたから送っていったんだよ」と段平が言った。「何かあったんですか?」
「厄介をかけてすまなかったな」と彼は言った。
コメント