「いま私を口説いたばかりじゃないの!」
「うるせえ、おれにはちゃーんと女房がいるんだ!」
「おかみさんを持っているのは、あんた一人だけじゃないよ、まったくもう!」女は木内をもっと強く抱きしめました。「かみさんもいないような男なんて、一緒に寝たってちっとも面白くないわよ。ねえ、あっちへ行こうよ!」
「おれは帰るぜ」と房二郎は言いました。「なんだか、すごく悲しくなっちゃったよ」
「出ようぜ」と木内が言いました。「お勘定をしてくれ」
「お勘定は、こっちで払うよ」と房二郎が言いました。
「だめだよぅ!」女は木内を押し倒しました。「あたしを口説いておいて、なによ!」と、女は木内の上にまたがりました。「今夜は絶対寝かさないからね! 帰るなんて言ったって、帰しやしないんだから!」
そして女は、木内の頬にチュッと吸いつきました。
――かなしいな。生きるっていうことは、こんなにもかなしいものなんだな。
そのお店を出て、歩きながら房二郎はそう思いました。
女は、木内を心から好きでたまらないわけではなさそうでした。
けれども、しがみついたり、強く抱きしめたり、頬に吸いついたりするそのしぐさには、ただの商売(お仕事)だけではない、何か別の強い気持ちがこもっていました。
――迷子だな、あの女も迷子なんだ。何か自分の生きる道を探している、迷子なんだよ。
房二郎は、声をあげて泣き出したいような気持ちに駆られました。
「あのちょび髭の、ぼけなす野郎め!」と木内が言いました。「ぶち殺してやればよかったんだ!」
「木内さんは、十分にやったよ」と房二郎は言いました。「あんな人間、一寸刻みにしたって痛いとも思やあしないさ。あれで十分だよ。あれ以上やったら、こっちの手に縄がかかるだけで、相手はケロリとしたもんだぜ」
「逆だな」と木内は言いました。「世の中は、いつだってそうだ。今夜は飲み明かそうぜ! おい、酒をどんどん持ってこい!」
そのお店がどこにあったのか、房二郎にはわかりませんでした。
凍るような川風に吹かれながら、川岸を歩いた覚えがあるので、両国広小路(りょうごくひろこうじ)か、その裏のどこかの横丁の飲み屋らしかったのです。
門前仲町で三軒ほど飲んだでしょうか。川をこっち側へ渡ってからも、二軒か三軒はしごをしたようでした。
そして二人は、西川文華(にしかわぶんか)の悪口を言い、印刷部屋の連中が味方をしてくれなかったことを嘆き、おそでという女は女狐どころか、むしろ女狼(おんなおおかみ)か鬼女だと決めつけ、世の中のすべてを罵り(ののしり)ました。
「木内さんはさっき、女房持ちだって言ったようだな」と房二郎が聞きました。「ああ、門前仲町の飲み屋でさ。あれ、本当かい?」
「それが問題なのさ」
冷たい風がビュービューと吹き抜ける、灯りの見えない街を、二人はもつれ合うようにして歩いていました。
「女房持ちに、いったいどんな問題があるって言うんだ?」と房二郎が言いました。「あの飲み屋の女も言っていたけれど、女房を持っているのはあんただけじゃないだろう?」
「おらあ、このままどこか遠いところへいっちめえて(行ってしまいたえ)んだ」と木内が言いました。「おめえだってもう、うちへ帰るほうがいい。どうせまっとうに生きていける世界じゃねえってことも、わかっただろ? なんとか謝って、許してくれる親類がいるんじゃないのか?」
「いないことはないさ。小旗本(こはたもと)へ婿に行った叔父さんが、本所(ほんじょ)にいるよ」と房二郎が言いました。「本所の相生町(あいおいちょう)で、土屋(つちや)って言うんだけどね」
「その人に頼み込んで、桜田小路(さくらだこうじ)へ帰るんだな。それがいちばんいい方法だよ」
「そんなところへ落ち着いちゃあだめだぜ。木内さんの家は、もうすぐそこじゃないか」
木内桜谷(きうちおうこく)は、道の脇にあった古い木材に腰を下ろし、低く垂れた頭を、ぐらぐらと力なく左右に振りながら言いました。
「おらあ、うちへは帰れねえんだ……」
「馬鹿なことを言わないでおくれよ」
「今日、私はあのちょび髭の目の前で、四つんばいになって這いつくばった。池さんはさぞ軽蔑(けいべつ)したことだろう。人間の屑だ、卑しい野郎だと思ったに違いない……」
房二郎は、何も言えませんでした。「だけどな、池さん」と、木内はうなだれたまま続けました。「あのときもし、あのちょび髭のおっさんに『犬のまねをしろ』って言われたら、おらあ本当に犬になって、おすわりだってぐるぐるおまわりだってするつもりだったんだ」
「どういうことだい、それって」
「女房を呼んだんだよ」と、木内は言いました。「西川のやつが、来月からお給料を少し多くしてくれるっていうもんだから、箱根から女房を呼び寄せたんだ」
房二郎は腕を組みました。
冷たい夜風がビュービューと吹き抜けて、腰を下ろしている木内桜谷(きうちおうこく)の着物の裾がまめくれ、痩せ細ったすねが暗闇の中で寒そうにのぞいていました。
「いつか話したかもしれないな」と、木内は言葉を続けました。「おれは昔、お芝居の裏方で台本を書く人間になりたかったんだ。ほかの人の名前を借りて、世に出た台本もいくつかある。だけどあるとき、芝居小屋の頭取の奥さんと仲良しになっちゃってさ、それがまわりにバレて、芝居の世界から追い出されちまったんだよ」
「もうすぐ家に着きますよ。家に入ってからお話を聞きましょう。こんなところでぐずぐずしていたら、本当に風邪をひいちゃいますぜ」
「おれたちは苦労した。いや、本当に苦労したのは、女房のおたねのほうだな……」木内はうつむき、両手で顔を覆いながら言いました。「芝居の世界から締め出されたのは、おれにとって鳥の羽根をむしられたようなものだった。やれることなら何でもやってみたけれど、結局はちっぽろけなペン一本で日銭を稼ぐしかなかった。この文華堂に転がり込んできたのは三年前だけど、ボロ長屋の家賃を払って、男一人がやっと食べていけるだけの稼ぎにしかならなくてさ。おたねは自分から進んで、箱根の温泉宿へ女中奉公に行ってくれたんだ」
「それにしてはさ」と、房二郎が言いました。「記事を書きながら、ずいぶん景気よくお酒を飲んでいたじゃないか」
「女房が仕送りをしてくれていたのさ」
「それで、箱根か」
「温泉場ってのは、お金になるからな」と言って、木内はまたうなだれました。「――お金になる、か。どんな気持ちで、あの三年、箱根の山の中で苦労してくれたことか……」
「まさか、今さら泣き出すんじゃないだろうな」房二郎はからかうように言い、木内の腕をつかんで無理やり立たせました。「もう一またぎで長屋の門だ。さあ、帰ろうぜ」
「それが、だめなんだよ」
「なにがだめなんだい。あんたのおうちじゃないか」
「女房が来ているんだ」木内は力の抜けた声で言いました。「ちょび髭が、月給を上げてくれるって言っただろ。それだけあれば夫婦二人の暮らしは成り立つと思ったから、箱根から呼び戻したんだ。
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