初級翻訳・ラクダイ横町 第2話

ラクダイ横町

だから、大学の学生で、この横町へ遊びに来るくせがついたものは、みんな、落第してしまうのだ」
先生はこう言って笑われた。
「でも、このミルクホールは、けっして不真面目なところではないのだよ。ぼくもたいてい毎日来るし、ここへ来る学生たちを、にいさんのように思って話をしてみたまえ」
先生が言われたとおり、いのきちが働くようになったミルクホールには、大学の先生や学生たちが大ぜいやってきた。
むずかしい議論がはじまったり、ときには大学の教室をそのまま、先生が学生を連れてこられて、そこで講義がつづけられることがあって、ほんとうにきもちのいい働き場所だった。
けれども、夜になると、となりや向こうのカフェから聞こえてくる、はやりの歌のレコードがうるさくて、
(なるほど、ここは、ラクダイ横町だ)
と、いのきちは考えるのであった。
酔っぱらいの学生が、向こうのカフェを出てきたと思うと、またその足で、よろよろとこちらの喫茶店へはいっていく――というようなことが毎晩あって、
(大学へまで行って、どうしてあんなにお酒ばかり飲んでいるのだろう)
と、いのきちは驚いた。
それから、また、
(カフェでお酒を飲むって、ずいぶんお金がいるのに、あの人たちはどうしてあんなにお金を持っているのだろうか)
いのきちは不思議でたまらなかったが、そのような学生にくらべて、いのきちの店に来る学生たちはみんな貧乏なのか、お酒を飲んでくるようなことは一度もなかったし、それだけにまた、落第学生もいないらしいのがうれしかった。
「ほほう、きれいな石だね」
ある日、いのきちは、あの日本海で拾ってきた石を店に持ち出して眺めていたとき、こう言って話しかけたのが、吉村さんだった。「どうしたんだい。
きみが自分でみがいたのかい?」
そのとき、吉村さんがこう言ったので、
「まさか」
「ばかだなあ、吉村は」
ほかの学生たちが、どっと笑った。
「いえ、これは日本海で拾ってきたのです。
日本海の波にもまれて、こんなに丸くなったんですよ」
いのきちがそう言うと、
「そりゃそうだろうさ、波の作品だからね」
「こんな石を削るなんて、人間にできるもんか。
いくら吉村みたいに気が長くてもねえ」
ほかの学生たちは、そう言って笑い合ったのだった。
「なに、できない相談ってことがあるもんか。
波の力でできるんだから、人間にできないってことがあってたまるか。
要するに、時間の問題さね」
吉村さんはこう言った。
だが、少し言いすぎたとでも思ったのか、言葉を終えると、ペロリと舌を出した。
そして、そのときの舌の出し方が、とてもおちゃめで、いのきちは吉村さんのことを深く印象に残すことになったのである。
「ああ、吉村くんかい。
吉村くんは面白い、いい青年だよ」
ちょうど、吉村さんたちの講義を担当されていた山本先生も、こうおっしゃっていた。
「法科なんだけれど、まるで文学部の学生みたいに詩人なんだよ。
天文学がとても好きらしいんだ。
いつか星の話でも聞いてみなさい。
色々と面白い話をしてくれるからね」
と、山本先生は吉村さんを褒めていらっしゃった。
ところが、その吉村さんは、なかなか星の話をしてくれなかった。
いや、してくれなかったのではない、そう頼む機会がなかったのである。
というのも、いのきちが吉村さんに星の話をせがむよりも前に、いつも吉村さんのほうが、いのきちから山の話や湖の話を聞き出してしまうのだ。
だからいのきちは、いつも聞き手から話し手にまわされてしまい、今度こそ、今度こそ星の話を聞こう――と思っていたのだが、そうしているうちにとうとう、大学も学年の終わりに近づいた、三月のある夜のことだった。
もうそろそろ店を閉める時間になり、入り口の白い暖簾を取り外しているところへ、めずらしくお酒を飲んでいるらしい吉村さんが入ってきた。
「おや、吉村さん、きょうはどうされたんですか?」
いのきちは驚いて尋ねた。
「そんなにお酒なんか飲んでたら、落第しちゃいますよ」
いのきちが笑いながらこう言うと、
「なに、その落第なら、もうしちまったのさ」
吉村さんもそう言って、はっはっは……と笑い出したのである。
「ほら、いつも言っているように、ぼくは働きながら学校に行っているだろ。
ところがそのせいで、学校に出席する日数が足りなくなってしまってね、今年の試験を受ける資格をとうとう無くしちまったのさ」
「へえっ……」
はじめは驚いたが、そのうちにいのきちはだんだん腹が立ってきた。
向こうや隣のカフェーで毎晩のように酔っぱらっている学生たちと、この吉村さんとが、どちらも同じ「落第」だなんて……。
そう思うと、いのきちは急にむらむらと怒りの炎が燃え上がってきて、
「そ、それで、どうするんですか!」
いのきちはせき込むようにして聞いた。
ところが、吉村さんはかえって落ち着いたもので、
「なに、落第は落第さ。
もう一年やり直し。
のんびりやるさ」
こう言ってケロリと笑っているのである。
そして、いのきちが怒ったりあきれたりしていると、
「ねえ、いのきちくん」
吉村さんは急にクルリと後ろを振り向き、
「いのきちくんは、あれを知っているかい?」
と、向こうのカフェーの上の空を指さした。
「あれって、あの星のことですか?」
いのきちが呆れながらそう言うと、
「うん、あれだよ、あの三つ星さ」
「知ってますよ。
あれは、ぼくが山を降りて駅へ着いたとき、ちょうど駅の真上に光っていた星ですもん」
「あれはなんという星か、言ってみな」
「いや、名前は知りません」
いのきちがそう答えると、
「なんだ、知らないのかい? あきれたなあ」
吉村さんは本当にあきれたように笑い出した。
「あれがオリオンじゃないか。
オリオン軒のいのきちが、オリオンを知らないでどうするんだよ。
あの三つ星は五百光年――つまり、あの星の光が、あそこからここまで届くのに、五百年もかかっているんだ。
そう思えば、なあ、一年や二年の落第なんて、大したことないだろ?
なあ、いの公」吉村さんはそう言いながら、今度は本当の酔っぱらいのように、いのきちの肩をドスンと叩いて、よろよろと店の前を離れていった。
「いいか。
覚えておくんだぞ。
あれが、オリオン――、五百光年……」
 吉村さんは二、三度振り返ってそう言うと、急に大きなドラ声を張り上げて、歌を歌い出した。

カンラン咲いて 海青き
アテネの町の 春の色
七丘の森 秋ふけて
ローマの古都に 月高し
歴史はふれど オリオンの
三つ星いまだ 光あり……。

 きっと、吉村さんが卒業した高校の歌なのだろう。
ゆっくり、ゆっくりと歌うその歌が、ラクダイ横町の狭い道幅いっぱいに響きわたるのを、いのきちはじっと、いつまでも聞いていた。
 オリオンという、はじめてその名前を知った三つ星を見上げると、みよこの顔がぽうっと浮かんできた。
 五百光年、アテネやローマの古都――。
 そんな言葉が三つ星のあいだできらきらと輝いて、山で見た霜の驚きや、日本海の丸い石よりも、さらに新しい驚きの心を、いのきちの胸にかきたてたのだった。

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