初級翻訳・二十四の瞳 第32話

二十四の瞳

ひきこまれるような大きな声で、
「あらっ、仁太さん!」
 そして、あとからあとからバスから降りてくる顔に向かって、
「あら、あら、あら、みんないるの、まあ」
 仁太につづいて磯吉、竹一、正、吉次と、かつてあの岬の分校で学んだ少年たちはみんなそろっていた。
「先生、ご無沙汰しています」
 東京の大学生活があと一年という竹一は、細長くなった顔をしていかにも都会の風に吹かれてきたというような様子で、まっさきにあいさつした。
つづいて神戸の造船所ではたらいている正が、これはいかにも労働者らしくがっしりと鍛えられた顔立ちでありながら、人のよさそうな笑顔で頭をさげ、きまり悪そうに耳のうしろをかいた。
まっていたように磯吉が前に出てきて、
「先生、ご無沙汰いたしまして」
 少し心配になるほど青白い顔に、おだやかな笑みを浮かべた。
どこへも行かずに岬の村で山を切り出したり漁師をしたりしている吉次は、あいかわらず借りてきた猫ようにおとなしく、みんなのうしろにひかえ、鼻水をすすりあげながらだまって頭をさげた。
仁太ばかりは相変わらずの無遠慮さで、あいさつもなしだった。
彼は父親を手つだって石けんをつくっているという。
経済的にはいちばんゆとりがあるらしい仁太は、新調した国民服をきていた。
「先生、こないだ富士子に会ったで、富士子に」
 自慢げに富士子の名前を出して言う。
しかし先生はわざとそれに乗らず、自分をとりかこんだ立派な青年の姿を見上げるようにして眺めまわした。
八年の歳月は、あんなに小さかった少年たちを、見上げるほどたくましく育てていた。
「そう、検査だったの。
もうそんな年になったのね」
 自然と涙でにじむ目に、五人の姿はぼんやりとかすんだ。
いつまでもこうしてはいられないと気づくと、きゅうに昔の先生としての顔にもどり、
「さあ、いってらっしゃい。
そのうち、みんなで一度、先生の家へ遊びにきてちょうだい」
 そう言うと、いかにも男の子らしくあっさりと離れていく後ろ姿を、さまざまな思いで見おくりながら、久しぶりに自分の口で「先生」と呼ばれたことが、なんだかとても新鮮で、うれしかった。
ふりかえると、おじいさんは茶店の横の日だまりでホコリをよけて待っていてくれた。
日当たりのよい生垣の一か所に蕾をつけた山吹がむらがり、細い枝は蕾の重さでしなっている。
その一枝を無造作に折りとりながら、おじいさんもまた若者たちを見おくりながら、小さな声でつぶやいた。
「えらいこっちゃ。
あやってにこにこしとる若いもんを、わざわざ鉄砲の玉の的にするんじゃもんなあ」
「ほんとに……」
「こんなこと、大きな声じゃ言うこともできん。
口に出そうもんなら、これじゃ」
 ランドセルをもったまま両手をうしろにまわし、さらに小声で、
「ほれ、治安維持法で、牢屋にぶちこまれるわい」
 歯のない口にきゅうに奥歯がはえたような気がするほど、いきいきと若がえった口調だった。
治安維持法というものを、彼女はよく知らなかった。
ただ『草の実』の稲川先生が、その治安維持法という法律に違反したという理由で牢獄につながれ、まもなく出てきてからも復職はおろか、まともなあつかいも受けていないということだけが、その法律と結びつけて考えられた。
稲川先生の母親は、まるで気がおかしくなったように息子をかばい、今では息子は過去のあやまちを深く反省していると、会う人ごとに必死になって言いふらしてまわっているという噂をきいていた。
どこまでが本当なのか分からないが、ただ稲川先生はひとり養鶏をしながら世間からはなれた生活をしていた。
彼が世間をはなれたのではなく、世間のほうが彼をよせつけないのだ。
彼の売る卵は、まるで毒でも入っているかのように嫌われ、一時期は買い手すらなかったという。
時代は人に「三匹の猿」になれと強いるのだ。
口をふさぎ、目をつむり、耳をふさいでいればいいというのだ。
ところが今、目の前にいるおじいさんは、目や耳をふさいでいる猿の手を無理やりはぎとるようなことを言う。
戦友の娘だとはいえ、はじめて会った女に、なぜ自分の心の奥を見せるようなことを言うのだろうか。
半分は警戒心もおきて、彼女は、それとなく話題をそらせた。
「ところで小父さん、わたしの父とは、いつごろの仲間だったんですか?」
 にこっと笑ったおじいさんはまた奥歯のないもとの表情にもどり、
「そうだなあ、十八か、十九のころかな。
二人ともでっかい夢を持っていてな。
あわよくば外国船に乗りこんで、アメリカへ渡ろうって話していたんだ。
シアトルにでも着いた日には、海にとびこんで泳いで岸まで渡ってやろうって算段よ」
「まあ。
でも、昔はよくあったそうですね」
「あったとも!
アメリカで一山あててやろうってわけだが、じつをいうと、一番の理由は徴兵がいやでなあ。
――今ならこんなこと言ったら一大事じゃが」
また手をうしろにまわして笑った。
「じゃあ、とうとうその目的は果たせなかったんですか?」
「そういうわけさ。
もっとも、そのころは船にさえ乗っていれば兵隊に行かなくてもすんだからな。
そのうち二人とも船乗りがすきになってな。
同じ船乗りになるならちゃんと免状を持っていようというんで、これでも一生懸命勉強したもんじゃ」学校へなんか行ってなかったから、わしらは五年もかかってやっと甲種の一級運転手になったんだあ。
嘉吉つぁんのほうは、一年早く試験に通ってな、わしも、なにくそと思って、次の年にとったのに――」
 そのとき相棒は難船して行方不明となり、ついによろこんでもらえなかったというのだ。
父の妻である母からきくのとはちがう父の姿、涙どころか微笑さえ浮かべて想像される若い日の父の姿、語る人の親愛感からであろうか、父ははつらつとした好もしい青年であったと知った。
その父が徴兵をきらったということは初耳である。
それについて一言もしない母は、父からそれをきかなかったのであろうか。
それとも例の猿になっていたのか、「嫁さん」と呼ばれたこととともに母にきいてみようと考えながら、話はつきなかった。
「そして小父さん、いつごろまで船に乗っておいでたん?」
「十年ほどまえよ。
ようやっとちんまい船の船長になってな。
――息子は学校へやって苦労させずに船乗りにしてやろうと思ったら、船乗りはいやだといやがる。
商業学校にやって、銀行の支店に出とったけんど、とられて、死んだ」
「とられてって、戦争ですか?」
「そういな」
「まあ」
「ノモンハンさあ。
これは、そいつのせがれので」
 ランドセルは年よりの手で強くふられ、中のボール紙がかさこそと音をたてた。
――おたがいに、せがれをもつのは心配の種ですね。
といおうとしてのみこんだ。
バスでは客がたてこんでいて並ぶことはできなかった。
うしろの正面に席をとった大石先生は、じっと目をつぶっていた。
思いだすのは、いまのさっき別れた教え子のうしろ姿である。
けもののように素っ裸にされて検査官の前に立つ若者たち。
兵隊墓に白木の墓標がふえるばかりのこのごろ、若者たちはそれを、じじやばばの墓よりも関心をもってはならない。
いや、そうではない。

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