初級翻訳・二十四の瞳 第21話

二十四の瞳

「せんせい!」
「なあに、松江?」
「あのね、あのね、うちのお母さん、女の子産んだんよ!」
「あらそう! おめでとう! なんて名前なの?」
「あのね、まだ名前ないの。一昨日生まれたばっかりなんじゃもん」「あした、あさって、しあさって」
と、松江は三本の指をゆっくりと折り、
「六日ざり(名付日)。
こんど、わたしがすきな名前、考えるん」
「そう、もう考えついたの?」
「まだ。
さっき考えよったん」
松江はうれしそうにふっと笑い、
「せんせ」
と、いかにもこんどは別の話だというふうによびかけた。
「はいはい。
なんだかうれしそうね。
なあに」
「あの、お母さんが起きられるようになったら、アルマイトの弁当箱、買ってくれるん。
ふたに百合の花の絵がついとる、べんと箱」
すうっとかすかな音をさせていきを吸い、松江は顔いっぱいによろこびをみなぎらせた。
「あーら、いいこと。
百合の花の絵がついとるの。
ああ、赤ちゃんの名前もそれなの?」
すると松江は、恥らいとよろこびを、こんどはからだじゅうで示すかのように肩をくねらせて、
「まだ、わからんの」
「ふーん。
わかりなさいよ。
ユリちゃんにしなさい。
ユリコ? ユリエ? 先生、ユリエのほうがすきだわ。
ユリコはこのごろたくさんあるから」
松江はこっくりうなずいて、うれしそうに先生の顔を見あげた。
松江の目がこんなにもやさしいのを、はじめて見たような気がして、先生はその長いまつ毛におおわれた黒い目に、じぶんの感情をそそいだ。
仁太のことはもう、ひとまず流して、心はいつかなごんでいた。
松江にとってもまた、その数倍のよろこびだった。
先生にいわなかったけれど、お昼の弁当のとき、松江は大きな父の弁当箱を、小ツルやミサ子から笑われたのである。
それで、彼女はひとりみんなからはなれていたのだ。
しかし今は、そのしょげた気持も朝露をうけた夏草のように、元気をもりかえした。
じぶんだけが、とくべつに先生にかまわれたようなうれしさで、これはないしょにしておこうと思った。
だのにその日、帰り道で彼女はつい口に出してしまった。
「うちのねね、ユリエって名前つけるん」
「ユリエ? ふうん、ユリコのほうが気がきいとら」
はねかえすように小ツルがいった。
松江は胸をはって、
「それでも、小石先生、ユリエのほうがめずらして、ええっていうた」
小ツルはわざととびあがって、
「へえ、なんで小石先生が。
へえ!」
なにかをさぐりあてようとでもするような目で松江の顔をのぞきこみ、
「あ、わかった」
ならんでいたミサ子をうしろの方へ引っぱっていって、こそこそささやいた。
富士子、早苗、コトエとじゅんじゅんにその耳に口をよせ、
「なあ、そうじゃな」
おとなし組の三人は小ツルの言い分にさんせいできないことを、気弱な無言であらわすばかりで、松江を孤立させようとした小ツルのたくらみはくずれてしまった。
よく気のあうマスノが、今日は母の店によって、ここにいないのが小ツルの弱さになっていた。
彼女はみんなに、松江がひいきしてもらうために、ひとりで小石先生にへつらったといったのである。
そのためにかえってじぶんから孤立した小ツルは、ひとりふきげんにだまりこんで、とっとと先を歩いていった。
みんなもそのあとからだまってついていった。
一つはなをまがったときである。
前の小ツルがきゅうに立ちどまって海のほうをながめた。
先にたつものにならう雁のように、みんなも同じほうを見た。
小ツルが歩きだすとまた歩く。
やがて、いつの間にかみんなの視線は一つになって海の上にそそがれ、歩くのを忘れてしまった。
はじめから小ツルは知っていたのであろうか。
それともたった今、みんなといっしょに気づいたのであろうか。
静かな春の海を、一そうの漁船が早櫓でこぎわたっていた。
手ぬぐいで、はちまきをしたはだかの男が二人、力いっぱいのかっこうで櫓を押している。
二丁櫓のあとが、幅びろい櫓足をひいて、走るように対岸の町をさして遠ざかってゆくのだ。
もうけんかどころでなかった。
なんじゃろ?
だれのうちのできごとじゃろう?
みんな目を見あわした。
消え去りつつ新らしくひかれてゆく櫓足から、岬の村に大事件が突発したことだけがわかった。
急病人にちがいない。
船の胴の間にひろげたふとんが見られ、そこにだれかがねかされているとさっした。
しかし、またたくまに船は遠ざかり、乗りこんでいる人の判別もつかなかった。
まるでそれは、瞬間の夢のように、とぶ鳥のかげのようにすぎた。
だが、だれひとり夢と考えるものはいなかった。
一年に一度か二年に一度、急病인을町の病院へ運んでゆく岬の村の大事件を、さかのぼって子どもたちは考えていた。
かつて小石先生もこうして運ばれたのだ。
怪我をしたか、急性の盲腸炎か。
なんじゃろう?
だれぞ盲腸の人、おったかいや?
あとから追いついてきた男の子もいっしょにかたまって評定した。女はだれも声をたてず、男の子がなにかいうたびにその顔に目をそそいだ。
そんななかで松江はふと、今朝家を出かけるときの母の顔を思い浮かべた。
瞬間、黒いかげのさしたような不安にとらわれたが、そんなはずはないのだと、つよくうち消した。
しかし、頭痛がするとて顔をしかめ、手ぬぐいできつくきつくはちまきをした、その結び目のところの額によっていた、もりあがった皺を思い出すと、なんとなく払いきれぬ不安がせまってきた。
はじめに、今日は父に休んでもらいたいといった母、しかし父は仕事を休むわけにはいかなかった。
「松江を休ませりゃ、ええ」
父が、そういうと、そんならええといい、松江にむかって、
「学校、はじめてなのになァ。
だけんど、遊ばんともどってくれなあ」
思いだして松江はどきどきしてきた。
するといつのまにか足は、みんなの先を走りだしていた。
ほかの子どももついて走った。
足がもつれるほど走りつづけて、ようやく岬の家並を見たときには、松江のひざはがくがくふるえ、肩と口とでいきをしていた。
村のとっつきがよろずやであり、そのとなりのわが家に、おしめがひらひらしているのを見て、安心したのである。
しかし、その安心で泣きそうになった彼女は、こんどは心臓がとまりそうになった。
井戸ばたにいるのが母ではなく、よろずやのおばさんだと気がついたからだ。
はずんだ石ころのように坂道をかけおりた松江は、わが家の敷居をまたぐなり、走ってきたそのままの足のはこびで、母のねている納戸にとびこんだ。
母はいなかった。
「お母さん……」
ひっそりとしていた。
「おかあ、さん」
泣き声になった。
よろずやのほうから赤ん坊の泣くのが聞こえた。
「うわあ、わあ、おかあさーん」
力のかぎり大声で泣き叫ぶ松江の声は、空にも海にもひびけとばかりひろがっていった。

六 月夜の蟹

五年生の教室は川っぷちに新らしく建った校舎のとっつきであった。
川にむかった窓からのぞくと、衽のような形の、せまい三角地をはさんで、高い石垣は川床まで直角に築かれていた。

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