――翌朝の十時、ロビーでお茶の時間になった時、博士と伊藤豊治の二人は、すっきりと身なりを整えて、片隅のテーブルで熱いコーヒーをすすっていました。
その日はなぜかやたらとお客が多く、朝食だけを食べに来たらしい紳士や、誰かと待ち合わせをしているらしい人たちが、それぞれコーヒーを飲んだり、トーストや塩豚、目玉焼きをつついたりしていました。
――十時を十五分ほど過ぎた頃でした。
ホテルの表にピカピカの高級車が横づけになり、三人のヨーロッパ人がロビーに入ってきたのです。
この三人は毎朝ここに朝食を食べに来るらしく、奥のほうに決まったテーブルが用意されているほどの顔なじみでした。
入ってきた三人は、なまりのあるフランス語でガヤガヤと騒がしく話し合いながら自分たちのテーブルにつき、タバコを取り出しました。――毎日来ているので注文は決まっているらしく、やがてウェイター(――伊藤青年に亡霊の話をしたあのウェイターです)が銀の盆の上にコーヒーやトースト、サラダをのせて運んでいきました。「お早うございます」
「ヤア、オ早ウ。宜イ天気デスネ」
「左様でございます。――本日は特にベーコン・エッグスをご用意いたしましたので、どうかお試しになってみてください」
そう言って給仕がテーブルの上へ銀の盆を置いた、その時でした。
突然、すぐうしろから、訛りのない流暢なフランス語で、
「失礼ですが、そのベーコン・エッグスは私の方へ頂きたいですね」
と声をかけた者がいました。――三人の外国人がびっくりして振り返ると、そこには鹿谷博士がにやにやしながら立っていたのです。
――いや、博士だけではありません。驚いたことに、今までただの宿泊客のように見えていたロビーの人々、およそ十七、八人ほどの紳士たちが、ぐるりと彼らの周囲を取り囲んでいました。しかも、その手にはみんな拳銃が握られています!
博士は冷やかな声で続けました。
「×××国の特務機関員のみなさん、もうじたばたしても無駄だよ。この通り、君たちのまわりはすっかり網で包み込まれているんだ。
あの亡霊のからくりも、すっかり暴かせてもらったよ」
「なにっ! きさまら……!」
「手を挙げろ! 動いたら射殺するぞ!」
どなりながら力強く進み出たのは、おじいさん紳士に変装していた、警視庁の高野刑事課長でした。
三人の外国人は一瞬にして顔面から血の気がサーッと引き、両手を高く挙げながら椅子から立ち上がりました。
その隙でした。例の給仕は影のようにスルスルと身を引くと、まるで弓の弦(つる)から放たれた矢のようなものすごい勢いで、地下室の方へ逃げ出したのです!
それを見た博士が、
「伊藤くん、みどりさんを閉じ込めたのはあいつだ、逃がすな!」
と叫ぶより早く、伊藤青年は、
「くそっ!」
とひと声うなり、まるで弾丸のように走り出すと、ちょうど石の階段を半分ほど駆け下りていこうとする給仕の背中めがけて、思いっきり飛びかかりました。
それはまさに命がけの奇襲でした。
ふたりはもんどり打って重なり合いながら、そのまま地下室へと転がり落ちていきました。
「――衆生(シュション)!」(中国語で「畜生」という意味です)
給仕はまるで野獣のように叫ぶと、いきなり右手に短剣を抜いて跳ね起き上がりました。
その瞬間、伊藤青年は下から一気に強力なキックを浴びせ、素早く身を寄せると、力任せに右の拳(こぶし)で相手の顎(あご)を思いきり突き上げました。
「うわっ!」
とよろめくところへ、もう一発。
「この豚野郎ッ!」
とばかりに、鼻の骨をへし折る勢いで殴りつけました。
妹をあんなに苦しめた憎い仇(かたき)と思うからこそ湧き上がる、激しい怒りの拳です。
給仕は鼻から血を激しく噴き出しながら、仰向けにひっくり返って倒れ込みました。
「みごと、みごと! ――もうそこまでにしておきなさい」
階段の入り口から、博士が愉快そうな声をかけました。
「これ以上やったら本当に死んでしまうだろう。
あとは警視庁の皆さんに任せればいい。それよりも、早くみどりさんを助けに行ってあげなさい!」
伊藤青年は、倒れている給仕(正体は中国人でした)の脇腹をドカンとひとつ蹴りつけてから、急いで物置部屋の方へと駆け出していきました。
それから一時間後のこと――。
伊藤の兄妹は博士の部屋で、あたたかいコーヒーをすすりながら、この恐ろしい事件の謎を解き明かす博士の話にじっと耳を傾けていました。
「彼らは×××国のスパイ(間諜)だったのだよ。
あの給仕は中国人だが、もちろん彼らの手下の一人さ。
――亡霊の話なんてデタラメを言ったのは、あの部屋へ誰も近づかせないためだったのさ。なぜなら、あそこの部屋こそが、奴らの秘密の連絡に使われていたからなのだよ。
では、一体どういう方法で連絡を取り合っていたかというと……あの『紙を裂くような音』、あれがまさにその秘密の機械の音だったのさ。
別のスパイがすぐ近くの第×連隊の横に張り込んでいてね、連隊の動きをこっそり探り、それを光線通信でこちらの部屋へと送っていたというわけさ」
「ですが先生、もし夜間にそんな光線で通信したりしたら、すぐに発見されてしまうのではありませんか? ――現に昨日の夜、僕たちがあんなにしっかり見張っていたのに、外には何の光も見えませんでしたよ」
「だからこそ、人間の目には見えない光線を使ったのさ」
博士はふふっと微笑みながら続けました。
「つまり、『赤外線』だよ。
兵営の近くから特別な機械を使って、この部屋に向かって赤外線を照射していたんだ。君も知っている通り、赤外線は人間の目には絶対に見えないものだからね。
だが、同じ仕組みの受信装置さえあればしっかり感知できる。だから光線を受けると同時に機械が勝手に動き出し、目に見えない通信を完璧に記録していくんだ。
――昨夜、壁のところで『カチリ』と音がして、小さな火花がパッと光っただろう?
あのとき、その記録装置が動き始めたのさ。
それから、あの白い亡霊……あれは例の中国人の給仕が化けたものだったが、あの亡霊のふりをして部屋を歩きながら、その記録の紙を取り外していたのだ。そして、朝になってあの三人の外国人に朝食を出すとき、そっと手から手へ渡していたという仕組みさ……。
いやはや、敵ながらお見事というべきか、赤外線をスパイ活動に使うなんて、歴史上でもこれが初めてのやり方だろうよ」
「――ところで先生、どうして先生は、これがただの事件ではなく『スパイ事件』だと気づかれたのですか?」
「最初は、そこまではっきりとは分からなかったさ。
ただ、あの給仕が自分から得意げに『亡霊が出る』なんて話をわざわざ話してきたもんだから、こいつは怪しいとにらんだのさ。
なぜなら――商売として客に尽くすべき人間が、何も訊ねられてもいないのに、お客が一番嫌がるようなお化けや亡霊の話を自分からペラペラしゃべるはずがないからね。
『ここは何か裏があるぞ!』とピンと来たのさ。その直後にみどりさんが行方不明になったと聞いて、このホテルには絶対に何か秘密が隠されていると確信した。
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