そしてその提灯の火は、右を照らし左を探りつつ、「わっ、わっ」と声をあげながら次第に近づいてきましたが、やがて桜の根元でもだえうごめいている黒い影を見つけたのでしょうか?
「おっ、なんだか桜の根元でうめいているぞ!」
と近づいていきましたが、提灯をかざしたその一隊は、思わずそこにがくぜんと立ちすくんでしまいました。
見よ、見よ! その瞬間、バサッとすさまじい音をたてて、桜の枝からなにか真っ黒な大きな怪物が、うめいている左近将監の上へと飛び降りました。
そして飛び降りると同時に、鋭い爪を立てたのでしょう。
バリバリ! と肉の破れる音がして、一同がハッと息をのんだ瞬間、怪物は、いとも軽々と将監の体をくわえると、ひとふりふたふり爛々(らんらん)と光るまなこで一同をにらみつけながら、パッと横手の暗がりの中へと姿を消してしまいました。
あまりのすさまじさに、一同はまるで夢を見ているような気持ちでポカンと呆然としていましたが、のちにこの左近将監の死体は、目も鼻も口も、なにがなんだか見分けもつかないほどに噛みちぎられた無残な姿で、我が家である山茶花(さざんか)屋敷の正面式台の上に大の字に転がされ、息子の新之丞の死体のとなりに並べられてあったと、いまに伝えられているのです。
「どうも……だいぶ話が長くなってしまったが、なんと、驚かれたかな? 恐ろしいことだよ、本当になんとも言いようのない、恐ろしい因縁が、あの屋敷にはからみついているのじゃよ」
と長い真っ白いひげをそよがせながら、了福寺の和尚さんの長い長い物語はやっと終わりを告げましたが、聞けば聞くほどあまりにもすごすぎる由来話に、博士も、博士のお義兄さんの健一さんも、しばらくと言葉もなく、じーっと顔を見合わせるばかりだったのでした。了福寺の過去帖
短い秋の日はもう暮れかけているのでしょうか。
裏山からさびしい山鳩の鳴き声が聞こえて、この座敷から見える庭の苔むしたかけい(樋)のあたり、その上に枝をさしのべているこんもりとした紅葉の老木のあたりには、もう晩秋の夕暮れがそろそろ近づいているように感じられます。
「……こういう身の毛もよだつような、悪因縁がまつわりついとる家じゃから、わしはあの屋敷をこわしてしまいなされ! と、健一さん、あんたにしつこくすすめたわけなんじゃ」
和尚さんは、渋茶で喉をうるおしながら、博士のお義兄さまの方を振り返られました。
「あのときわしがいったように、ひと思いにこわしてさえおけば、あんたもこんなおそろしい目にはあいなさらなかったのじゃ」
と、こんどはかたわらでじっと黙っている博士の方を振り返られました。
「が、わしもわるかった。
あのとき、ただこわせ、こわせとばかりすすめずに、これこれこういうわけじゃから、こわしてしまいなされ! とわけを話してあげればよかったのじゃが、そこまでうちあけなかったから、あんたもひと思いに、こわす気にもなれんかったのじゃろう……これはわしも失敗じゃ。
わしにも大きな責任がある。
が、いまからでもおそうはない。
悪いことはいわん! こんどこそこれにこりて、ひと思いにこわしてしまいなされ」
「もちろん、もう和尚さんが、のこしておけとおすすめになっても、こわしてしまいます。
さっきからお話をうかがっておりますあいだ、もうそればっかりかんがえておりましたが。
……しかし、それにしてもどうも、なんとも……からだ中のさむくなるようなお話で……」
と、聞き終わっても、まだ薄寒そうに、お義兄さまは肩のあたりをすくめていられましたが、思いは博士も同じことでした。
文明のこの現代に、こんなバカな話があるものだろうか? といくら自問自答してみても、現にあのおそろしい老婆をこの目で見て、またおそろしい数々の出来事にも出会っているのですから、どうあっても、もう疑う余地はありません。
博士の胸には、いままでどうしても解くことのできなかった謎のすべてが、朝日の前の霧のように、たちまち消え去っていくのを感じられましたが、それと同時に、またいろいろな疑問も湧き起こってきます。
相手は和尚さんの言うとおり、怪猫だとしても、ではその怪猫というのは、百七十年たったいまでも、まだ生きて動き続けていて、こういうおそろしい、さまざまな祟りをしているのでしょうか?
また第二には、左近将監に対してこそ竜胆寺家や怪猫の恨みはあれ、なんのためになんの関係もない博士の家族にまでも、こんなおそろしい祟りをしているのでしょうか?
聞きたいことは博士の胸にもお義兄さまの胸にも次々とわきあがっていました。
そして、それを和尚さんも察してくださったのでしょう。
小坊主を呼んで、新しくお茶をいれかえさせると、
「さて、わしの話は、これでおわったのじゃが、これだけでは、わしがいいかげんな、出放題でもいったように思われるといけぬから、なぜわしが、いままでいったような、こんな話をしっているかということ、ついでにいっておいたほうが、よいと思うのじゃが」
と話しだされた和尚さんのお話によると、この了福寺という寺は、山茶花屋敷よりもさらに古く、二百年も昔から建っているお寺でしたが、この寺の二代目の和尚さんは、名前を恵善(えぜん)と言われました。
ちょうどいまから三年ばかりも以前のこと、この寺に伝わっている昔からの古い経文や帖面などの虫干しをされているときに、和尚さんはその恵善和尚の書かれた『山茶花屋敷石藤左近将監殿御一家過去帖』という古い帖面を見つけだされたのです。
その帖面というのは、いまから百七十年もまえに書かれたものらしく、紙の色もあせて、虫にくわれてボロボロになっていましたが、なんの気なしにそれをひらいてみて、アッ! と和尚さんは肝をつぶされました。
この帖面に、いままで話された顛末が、ことこまかに書きしるされていたといわれるのです。
吉浦の商人、和泉屋佐平治(いずみやさへいじ)なるもの、永代経料(えいたいきょうりょう)として三両二分をおさめて、石藤左近将監殿はじめ、非業の最期をとげられし人々のため、当寺において三、七、二十一日間の、供養をいとなむものなり。
と、その恵善和尚の手をもってかかれているところをみれば、例の左近将監におわれて、お小姓街道を、将監とは反対に村のほうへにげてたすかった、若党の佐平治は、のちに吉浦にすんで商人になったらしいのですが、だんだんお金ができるにしたがって、むかしを思いだして、助かったのはじぶんひとりっきりのことを考えると、さすがに寝ざめがよくなかったのでしょう。当時としてはものすごく大金だった、三両二分という大枚をはたいて、無残に命を落としてしまった主人の左近将監をはじめ、昔の仲間たちの追善供養を、この恵善和尚にお願いしたということのようでした。
そして恵善和尚はその依頼を引き受けて、三日、七日、二十一日間の供養をしっかりとなし遂げました。しかし、佐平治の話があまりにも奇妙で信じがたいものであったことと、寺の未来の和尚たちに向けて「将監の命日には忘れることなく供養を行いなさい」と伝え残すため、佐平治から聞いた話をくわしく書き留め、それを寺の過去帖に記したのだろうというのが、和尚さんの推理でした。
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