初級翻訳・亡霊怪猫屋敷 第33話

亡霊怪猫屋敷

「はハァ、旦那さまはお気がふぐれてしまったのだな!? それじゃあ、もうどうしようもねえ! 手前のこのご奉公も、ここまでだ! 旦那さま、これでお別れいたします。長々とお世話さまでございました!」
身をクルリとひるがえして佐平治が闇の中へ飛び込んだとたん、間一髪のところで、
「ええい、おうっ!」
と将監が飛びかかってきましたが、わずかに背筋一寸か二寸の差で、わおぅっ! と佐平治はからくも難を逃れることができました。
「卑怯ものめ、待て! おのれ曲者め! 逃げようったって逃がすものか!」
必死になって逃げていく後ろから、左近将監もまたすごい勢いで追いかけてきます。
こうして追うものと追われるもの、主従ふたりはこの惨めな死人の屋敷をあとにして、真っ暗な闇の中へとその姿を消してしまいました。
しかし、この頃にはもう、不思議な力を得たあの怪猫が、気が狂った左近将監の目の前にだけにその姿を現し、将監はすっかり怪猫の思いのままに導かれていたのだと思われます。
狂ってしまった主人を見かぎった佐平治は、お小姓街道を右へとそれて、村の方へ、村の方へと逃げていきました。しかし将監は血刀をひっさげたまま、左の方――御城下のほうへ! 御城下のほうへ、御城下のほうへと息を切らせながら、怪猫の姿をもとめて歩いていきます。
お小姓街道が行き止まる場所には、自然石を並べた小川の小さな橋があります。
ここへたどり着くまでに、すでに左近将監は、町からとぼとぼと杖をつきながら頭陀袋(ずだぶくろ)を背負った老婆をひとりと、そのあとからやってきた村の百姓とを、すれちがいざまに一刀のもとに斬りたおしていました。
そしてその石の橋を渡って約一町(約100メートル)ほど、しだいに城の大手門、いつか黒装束の曲者が現れたあの桜並木の馬場へと近づいていきました。時刻はちょうど、今の夜の八時半ごろだったのではないかと思われます。
町でいっぱいお酒を飲んできたらしき、ほろ酔い気分の侍が二人、提灯を灯しながら朗々と詩を唱えながら、お城の方へと近づいてきました。
「曲者め、思い知ったか!」
追いすがりざまにバッサリと一太刀……。
「ウウン」
と、ひとりはたちまちその場に倒れましたが、もうひとりの連れはなかなか心得のある侍とみえて、そこの木立を背にしてすぐさま刀を抜き合わせました。
「無礼者め、何をいきなり曲者呼ばわりなどと奇怪な! 名を名乗れ! 拙者は御書院番(ごしょいんばん)の多治見数馬(たじみかずま)、人から恨みを買うような覚えは毛頭ないぞ!」
「おのれ曲者め、思い知ったか!」
「名を名乗れ、名を!……ほう、これはめずらしい! 貴様、相当に剣を使うな!」
チャリン、チャリンとはげしく斬り結ぶこと二、三合……。
「無礼者め! 貴様は間庭無念流(まにわむねんりゅう)の使い手だな! これはおもしろい、よし、いくぞ! 拙者もいくぞ!」
「怪猫のぶんざいでありながら、この間庭無念流の腕前を見抜くとは、小癪千万(こしゃくせんばん)な! 老母の仇、息子の仇! 城代・石藤左近将監の刃を受けてみよ!」
「おっ、その声は、御城代さまでござるか!」
相手の侍はがくぜんと驚き、五、六歩あとへさがりました。
「御城代さま! どうかその刀をお引きくだされい! 拙者は御書院番の多治見数馬でござる! 御城代さま、どうか刀をお納めくだされい!」
「怪猫のくせに、御書院番などとよくもほざきやがるな! おのれ、思い知ったか!」
横から激しく払ってきた一刀を、相手はみごとに受け止めましたが、とたんにパッと刀を引き離すと、タタタタタとまたもや五、六歩うしろへ飛び下がりました。
「卑怯のようにおもわれるかもしれぬが、拙者、御家老さまと刀を交える気はござらぬ!
これにてお引きもうす。ごめん!」
「おのれ曲者め、逃げる気か! 待てえ曲者、引き返せえ!」
しかし侍はとっとと足ばやに、お城の方へと走り去っていく様子でした。いいえ、走り去っていくばかりではありません。
ずいぶん前のほうへ行く、やはり侍らしき黒い影に向かって、大声を張り上げました。
「お気をつけてください、皆様方! お城代の石藤左近将監(いしとうさこんしょうげん)さまが狂ってしまわれましたぞ! 血まみれの刀を持って、拙者のあとを追いかけてこられます。
急いでお逃げなさいませ!」
「なんだと? 御家老さまがご乱心だと? おう、承知した。
おい、皆の者!」
どちらも城の方角へと、あわてて逃げ帰っていく様子です。
「卑怯な曲者め、後ろを見せるとは臆病者め!」と、将監はあとを追いかけていきましたが、しかし将監は別段、侍たちをねらっているわけでもないようでした。
ただ、あの怪猫の幻影ばかりを、追い求めているのでしょう。
例の桜の木の下までくると、そこに立ち止まって、さきほどまでの侍たちのことなどすっかり忘れてしまったかのように、桜の木の梢を見上げて、「おのれ曲者、おのれ曲者」と、しきりに刀を振り回しているのです。
おそらく他の人には見えなくても、狂ってしまった左近将監の目にだけは、桜の枝の陰に、怪猫の姿が映っていたのかもしれません。
しかし、刀を振り回してはいても、このときにはもう、狂った頭はいよいよその度を増していました。刀を振りかざしているかと思えば、たちまちゲラゲラと笑いだし、ゲラゲラと笑ったかと思えば、また目をいからせて枝を見上げてにらみつけ、よだれを垂らしながら着物の前を子どものようにあけっぴろげて、まったくもってだらしないありさまでした。
しかも、上を見上げてさんざん狂ったふるまいをしたあげくの果てに、なんと、あろうことか! 桜の幹にもたれて上を見ながら、グッと帯を引き下げて、着物の前をくつろげはじめたのです。
「ワッハッハッハッハ、こはおもしろい、おもしろい! 獣の分際でありながら、侍の腹の切り方を知りたいとな! よし、教えてやろう。
のちの勉強のために、よーく上から眺めておれ! 城代・石藤左近将監の立ち腹の切り方とはこうだ……まず、へその下の一寸ほど左のわき腹に突き立てて、右へ回し……」
とうとう自分の腹へ、刀を突き立ててしまいました。
「グッと上へ切っ先を上げ……痛くともうめき声を上げず……うむ、これはかなりこたえるな、こらえてうめき声を上げぬのが真の武士だ! うむ、これはいかん、かなりこたえる……グッと上げ……うむ……うむ」
血は滝のようにあふれ出し、侍の腹の切り方を教えてやるどころの騒ぎではありませんでした。
もう幹にもたれていることもできなかったのでしょう。
ドッと前のめりにうつぶせになり、「うむ、うむ」と苦しげにあえいでいたのは、まさに自業自得のなれの果てというほかはありませんでしたが、このころには、すでにさきほどの侍たちの知らせによって、城内では「御城代がご乱心された」という知らせに、大騒ぎになっていたことでしょう。
お城の大手門から繰り出してくる提灯の火がひとつ増え、ふたつ増え、しだいにその数を増やしていきます。

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