初級翻訳・地底獣国 第2話

久生 十蘭

歯並びのいい、白すぎる歯。
光を宿した鋭い目。
……その目は、さっきからずっと博士の顔に据えられています。
右の手は、なめし革のジャケットの脇ポケットに突っ込まれたままです。

そのほか七、八人、つまり「極東管区における秘密調査隊」の一行は、全員このテントの中にいました。
他の八人の学術委員たちは、キャンバス地の椅子や缶詰の空箱、ロープの束など、思い思いの場所に腰を下ろしています。
秘密調査隊のただ一人の女性、速記者のナターシャ・イワーノヴナは、テントの一番奥にある折りたたみ式のベッドに腰を下ろし、暗い様子で指の爪を噛んでいました。
美人というほどではありませんが、不細工というわけでもありません。
学問に対する盲目的な献身が、美に対する感覚をすり減らしてしまったようです。
むき出しの浅黒い肌。
ボウボウとした眉毛。
目だけは非常に魅惑的です。
深い黒い瞳。
フン族の血筋か、あるいは日本人の激しい感情を表すような、切れ長で大きな目です。

その隣にいるのが、気象学者のボリース・シルーキンです。
度の強い近眼鏡をかけ、臆病そうな顔をしています。
調査隊の中で、ただ一人髭を剃っている男です。
青白く細い顔。
長い白い指で額を押さえ、うつむいています。

沈黙。
待ちくたびれて、皆がイライラしはじめます。
ようやく、またラジオが鳴り出しました。

「六月五日、モスクワ・ホドウインカ局発信。
第二十七号。
……『ブハーリン派陰謀事件』の公判の続きです。
……北極海冬季航路開発を遅延させ挫折させた、モスクワ科学アカデミー教授エス・エル・カルピンスキー博士の反革命的行為は、ただいま、午前十時、公判終結によって次のように明らかとなりました。
外駐英国大使ならびに外務人民委員代理クレスチンスキーは、イタリアのミラノにおいてトロツキーの指令を受け、対日・対独戦におけるソ連の敗北こそが政権奪取の好機であると判断。一九三四年、赤十字国際会議への日本渡航を利用して東京に滞在中、ソヴィエト政権転覆のため日本側に武力援助を求め、敗戦後、ドイツにはウクライナを、日本には沿海州を与えることを約束しました。
この間、博士は交通人民委員のローゼンゴリッツを通じてトロツキスト・ブロックと結びつき、リヤコフ島ならびにコテルニイ水道において、何の成果も出さずに時間を浪費し、島民に対しては不満を植えつけ、築港工事の怠業(サボタージュ)を煽動し、さらにレナ三角州の運河開削工事を妨害するなど、広範囲にわたる反革命陰謀を遂行したのであります。
……次に、前内閣人民委員ヤゴーダは……」

ヤロスラフスキー博士は、手を伸ばしてラジオのスイッチを切りました。
また、無人地帯の太古からの静寂が戻ってきます。
泣いているのかと思われるほど、博士は白髪の頭を低く垂れて、長い間じっとしていました。
それから、突然顔を上げると、悲痛きわまる眼差しで、ぐるりと一座を見渡しました。
いつもの穏やかな表情の奥に、やり場のない憤り(いきどおり)の色が押し殺されていました。

「……諸君、お聴きいただいた通りの次第です。」合同本部事件やトハチェフスキー事件の時と同じように、スターリンは「諜報関係」というもっともらしい名目をつけて、あの高潔なわれわれの先輩であるカルピンスキー博士を銃殺しようとしている。
……いったい、こんなことが、現実にあり得ることなのでしょうか」

だれも、返事をしなかった。
気象学者のボリース・シルーキンだけが、弱々しく肩を揺すった。
博士は、念を押すように、一人ずつ順々にその顔を眺める。

「諸君、私はすこし昂奮しているようだ。
それは認めます。
この世には、冷静な科学者の心緒を徹底的にかき乱すほどの不公平な事実があるものだということを、私は、今、つくづくと考えているところです。
……博士がトロツキスト・ブロックと結びついたなどというのは、まったく根も葉もないことだ。
博士の調査を遅延させたのは、反革命的精神などではなく、太陽の黒点増大による『ゼーマン効果』のせいだ。
異常寒波の突然な襲来が博士の調査を失敗させたのだということを、われわれは、よく知っている。
……その博士が謀反人の汚名を着せられて、二十四時間以内に銃殺される……」

分隊長のモローゾフ教授が、顎の下から左の拳を抜き出して、テーブルの上に投げ出す。
どすん、という激しい音がした。

「ところで、それは、同時に、われわれの運命でもあるのですね。博士」

博士は、軽く身体を痙攣させた。
表情の中に、沈鬱な色が濃くなった。

「われわれの運命?」

葦(あし)が風に震えているような、細い声である。
モローゾフ教授はテーブル越しに博士の方へ身体を伸ばして言った。

「われわれは失敗した。
……この北緯六十二度三十分の地点には、あなたが想像されるような事実は何ひとつなかった。
……この十カ月の間、われわれは破壊帯と可塑帯の二つの層のあいだを、ただぼんやりと彷徨(さまよ)っていたのにすぎない。
……いかにもそれらしい事実はあるにはある。
しかし、それはあなたがおっしゃるような状態にあるんじゃない。
中心圏を透して、まっすぐにどろどろの火が燃える岩漿帯(マグマ帯)に向かっているのです。
……これが、第二次五カ年計画における文化的国家事業の末路。
同時に、われわれの末路です。
……それに違いないですねえ、博士。
……調査の結果は? そこでわれわれが答える。
『ロバトカ山の岩石圏をちょっと覗いて来ました。別に、なにもありゃしませんでした』
よろしい。
『お前達の駆け引きは、こちらにはよくわかっている。お前達のしたことは、反革命的行為だ。銃殺だ! もう退ってもよろしい!』……ズドン、ズドン! われわれのうち一人として助かるものはない」

「つまり、こんな顔をして、くたばるんです」

モローゾフ教授が、目を剥いて、だらりと舌を出す。
博士が、冷静な声で口を開いた。

「モローゾフ君、われわれはまだ、何ごとにも着手していないんです。
今まで、われわれがやったことは、調査に対する準備でしかない。
従って、……」

教授が手をあげて遮る。

「あなたのおっしゃりたいことはわかっている。
……つまり、失敗などはしない、というんでしょう。
……それなら、それで、いいですとも! 強いてあなたのご意見に反対しようとは思いません。
……あなたの意見などは、どうあろうとかまわない。
ともかく、われわれは、何の希望もなく、変朽安山岩をほじくり返すことに飽き飽きしてしまったんです」

「われわれ、と、おっしゃるのは?」

「つまり、あなたを除いた、あと全部」

博士があらためて、ひとりずつの顔を眺める。

「すると、あなたの意見が?」

「われわれ全部の意見の総和です」

「いつ?」

「昨夜、第三天幕で決議しました」

「調査を中止して、このままモスクワへ帰ろうというんですね。モローゾフ君」

「とんでもない。そんなことをいっちゃいません。
われわれは、ただ、このうえこういうことを続けるのは嫌だといってるだけです。
あなたの滑稽な空想のために、われわれの仲間がもう、二人も死んでいる。

コメント

タイトルとURLをコピーしました