それどころか、気のせいか、親方がときどき自分の方へ、冷たく疑うような視線を向けてくるような気がして、背中がゾクッと寒くなりました。
「黒公。見つかったか? もっとも、こんな時間から探し始めて見つかるわけがないんだがな。おい、お前は一体、何を探しているのか分かっているのか?」
親方の声は、気味が悪いほど静かでした。けれど、その言葉には、親方得意のいじわるな皮肉がたっぷり込められていました。
(やっぱり来たか……)
黒吉は、ゴクンとつばを飲み込みました。
と、その瞬間、彼は思いがけないラッキーに救われました。
「黒公! お前の出番じゃないか、どこにいるんだ!」
カーテンの向こうでそう大声で叫んだのは、どうやら仙次さんのようでした。
これは黒吉のひがんだ考え方かもしれませんが、仙次さんは決して彼を助けようとして呼んでくれたわけではなさそうでした。むしろ、「黒吉がまだ来ていない」と思って、わざと親方に聞こえるように大きな声で怒鳴ったのだ、と考えた方が正しかったでしょう。
それはともかくとして、今のこのピンチの状況では、黒吉にとって仙次さんが、まるでありがたい神様のように思えました。
「じゃあ……ちょっと行ってきます!」
黒吉はそれだけ言うと、親方が返事をする間も与えず、大急ぎで部屋を飛び出しました。
彼は、急いでステージ用のタイツ(肉襦袢)に着替えると、いつものように楽隊のにぎやかなマーチ曲に送り出されて、葉ちゃんといっしょにステージの上に立ちました。しかし、どうしても心は、あのなくなった指輪のことで頭がいっぱいになってしまいそうでした。
(ダメだ、こんな余計なことを考えていて、もし失敗でもしたら大ごとだぞ!)
黒吉はぶんぶんと大きく頭を振って、その不安な気持ちを吹き飛ばしました。そして、葉ちゃんにチラリと目配せをすると、いつものように、するすると身軽にロープを伝って、天井近くの高いブランコへと登っていきました。
そして、慎重にブランコに腰掛け、一つ、二つと、心を落ち着かせながら揺らし始めました。
彼の目の前からは、もう親方のことも、指輪のことも、たくさんのお客さんの姿もすっかり消え去っていました。ただ、不思議な色のしま模様がぐるぐると激しく回り、唯一つ、葉ちゃんの乗っているブランコだけが、ある時は遠くの針のように小さく見えたかと思うと、次の瞬間には目の前いっぱいにドーンと大きく広がり、またすぐに糸のように細くなって、目の下へと消えていくのでした。
(よし、いくぞ!)
黒吉の体の中の血は、すべて、ピーンと張りつめた神経へと入れ替わりました。
そして――彼の体は、ブランコを離れて、大空へと飛び出したのです。パッと目の前が真っ暗になりました(それとも、黒吉が自分で目をつぶってしまったのかもしれません)。でも次の瞬間、なぜかサーカス小屋の隅にある洗面所のあたりが、ぼんやりとではありますが、目の前に浮かび上がってきたのです。
(あれ? 何か光っているぞ)
なんと、その洗面台の陰で、キラリと光っているものがありました。
(あっ、指輪だ! 見つけたぞ!)
そう思った瞬間、目の端を、葉ちゃんを乗せたブランコが、まるで矢のようなスピードで通り過ぎようとしました。
(しまった!)
体がすくむような恐ろしい恐怖が、彼の頭の中に、じわじわと染み渡っていきました。
「うわっ!」と、心臓が飛び出しそうな叫び声を上げると、黒吉はありったけの力を振り絞って、空中で体をぐっとひねりました。
運が良いことに、彼の片手は、ブランコの端っこをギリギリで掴むことができました。
「はぁっ……」
彼は、ずっしりと重いため息を、はるか下のお客さんたちの方へと吐き出しました。
それから、なんとかよじ登ってブランコの上に戻ることはできましたが、もうこれ以上、葉ちゃんの手にぶら下がって、元のブランコへと飛び移って戻る体力は残っていませんでした。
「どうしたの、黒ちゃん……?」
耳元で、思ったよりも平気そうな声でささやく葉ちゃんに、何か言い返そうとしましたが、体の中の空気がすべて胸につまってしまったようで、苦しくて言葉が出てきません。お腹の中はまるで空っぽになったようで、力という力がすべて消え去ってしまっていました。
とうとうあきらめた黒吉は、気を利かせた係の人が下ろしてくれたロープにしがみつくようにして、なんとかステージへと降り立ちました。そして、こそこそと逃げるようにして、大急ぎで楽屋へと入ってしまいました。
心優しいお客さんたちは、今のハプニングもわざとやったスリル満点の曲芸だと思い込んで、一生懸命に拍手を送ってくれていました。けれど、舞台裏に引っ込んだ黒吉には、その拍手がまるで自分をバカにして笑っている声のようにしか聞こえませんでした。
黒吉は、びくびくしながら、親方の部屋の方へと歩いていきました。
(どんなに大声で怒鳴られても、自業自得だ。仕方がない……)
そう覚悟を決めてはみたものの、親方の部屋を仕切っているカーテンが、親方の激しい怒りのパワーを受けているかのようにピクピクと震えているのを見て、一瞬、立ち止まってしまいました。
案の定、部屋の中には、まるでメラメラと燃え盛る火のような、親方のものすごい怒りが待ち構えていました。
「このバカ野郎! よくもまあ、ぬけぬけと戻ってきやがったな!」
黒吉は、いきなり大声で怒鳴られたことで、かえって心の中がシーンと静まり返り、落ち着いていきました。
「親方。僕、指輪を見つけたんです。あの、空中ブランコで空を飛んでいる時に……」
「バカなことを言うな! あんなに高いところから、下の様子が見えるわけがないだろう!」
「でも、でも……!」
黒吉自身も、自分で言っておきながら「そんなの無理があるよな」とは思いましたが、このピンチを切り抜けるには、もうこの方法しかありませんでした。
「でも、確かに見えたんです。洗面台の陰のところに……」
親方は、ジロリと冷たい目で黒吉をにらみつけると、
「よし」
と言って、わざとドタバタと大きな足音を立てながら、部屋を出ていきました。
5
黒吉は、しょんぼりとその場に立ち尽くしたまま、遠ざかっていく親方の足音をじっと聞いていました。
頭の中はいろいろな考えでいっぱいになって、カッカと熱くなり、床の板のすき間に落とした彼の瞳は、なぜか涙でうるんできました。
(困ったことになっちゃったな……)
彼は、気がつかないうちに、嫌な汗でベトベトになった手のひらを、衣装のタイツにこすりつけていました。
(本当にあそこに指輪があってくれればいいけれど……いや、そんなはずはない。あんな高いところから見えるわけがないんだ)
どうしてあんな嘘を言ってしまったんだろう――。そんな後悔の気持ちが、時間が経つにつれて、心の中でモクモクと大きく膨らんでいきました。
まるで底なし沼のようにジメジメとしたこの楽屋にも、ときどき、外のお客さんたちのざわめきや拍手の音が、海の波のように大きくなったり小さくなったりしながら伝わってきます。
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